SNSというと勢い「発信力」と話は展開されるが、こんな言葉があるかどうかは知らないけれど私は「受信力」というようなものがあると強く感じている。
私の論の主な土俵はフェースブックである。
例えば市田忠義さんのフェースブックの折々のつぶやきは、現下の情勢の見方や全国の動きを知るという意味で大変参考になるが、それよりも、もっとそれよりも、幾多の荒波をくぐって経験してこられた分厚い人間味、いわば人情たっぷりの先輩の言葉として私は楽しく「受信」している。それは咀嚼する当方の力不足ではなはだ不十分ではあるが、確実に私を励まし、ややもすると怠け心がもたげる自分自身に反省の機会を与えてくれる。
それは市田さんだけでなく、大阪の中村さんや、多くの議員や学者先生のフェースブックがそうである。
反語的に皮肉を言えば、そういう素晴らしい方々の「ナマの声」を「受信」もせずに頑張っておられる方々の強固な確信を尊敬する。(言葉の深い底に皮肉を含んでいるが)
発信という側面から日々の生き方を考えると・・・、
以前に大先輩からお便りをいただいたことを書いたが、そこには「老人会の会報を毎月出していると、日々の生活で常にアンテナを張っていて、そのことを通じていろんな発見があって面白い」という趣旨の言葉があった。
その教訓を私は、発信という目的意識があってこそ受信力が高まるのではないかと理解した。
その大先輩からは以前に、「キャッチボールというのは相手の捕りやすい箇所に向けて投げるものだ」とも教えていただいた。
テレビのニュースでも新聞記事でもたまたま見聞きした出来事でも、発信したい出来事は山のようにある。それらのことが広く正確に世間に伝わっておればあんな選挙結果はありえないだろう。
その間をつないで、我々が、自分の感性や経験と照らし合わせて、自分の言葉で「相手の胸」にボールを投げようとすれば、それが「受信力」を高め、自分自身を成長させるのだと思う。
あえて言えば、我々ごときは論戦などしなくてもいい。
それよりも素直に自分の考えを発信すれば、必ず理解は広がると私は信じている。
今回の選挙中も、古い先輩とSNSがつながって輪が広がった。
選挙結果を評論するのはもういい。
大切なことは足を一歩踏み出すことではないだろうか。
亡き義父の口癖だった茄子の花千に一つの仇もないとは
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