小笠原好彦先生の、定説に挑むかのような古代史の講義は面白い。興味があればご一読を!
『日本書紀』天武天皇9年11月12日条に、病気になった皇后(鵜野讚良皇女、後の持統天皇)のために天武は誓願をたて、薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度(出家)させたところ、病気は平癒されたとある。今の奈良・西ノ京の薬師寺の前身の藤原京の元薬師寺のことである。
その後こんどは天武が病気になってまた百人の僧を得度(出家)させたと書紀にある。それ以上は書かれていないが、発願は当然皇后で、その実務を担ったのはきっと藤原不比等だっただろう。ではその寺はどこに建立されたのか。
元薬師寺は藤原京の宮に近い右京八条三坊にあったが、丁度対象となる左京八条二坊に廃寺(寺の跡)がある。小字キテラにあることから定説は紀氏(きし)の氏寺の紀寺(これも奈良の紀寺(地名)にあった紀寺の前身)とされている。
小笠原先生はこの「定説」に異を唱えられている。
書紀によると、紀寺は天智朝には既に建っていたが、この廃寺の伽藍の中軸線は藤原京の条坊と一致していて天智朝まで遡れない。
瓦の文様が藤原宮や山背等の古代寺院まで広がっている。
反対に紀氏の本拠地の紀ノ川周辺からはその文様の瓦は出土していない。
よってこの廃寺は紀寺ではなく官寺である高市大寺ではないか。・・・というもので、私などは非常に説得力を感じている。
先日、小笠原先生による興福寺の講義を聞いた。
興福寺創建時の瓦の文様から遡っていくと、この藤原京の廃寺(高市大寺)、そして、持統の乳部(みぶべ)である河内馬飼(かわちのうまかい)の氏寺や、久米寺、藤原宮そのものまで繋がって、定説とされている紀寺廃寺が紀氏のものではなく藤原不比等の大いに関与した寺(国家の寺と藤原氏の寺)であることに話が及んで、「おさらい」をした感じだった。
さて、瓦の文様では軒丸瓦の蓮華文がその日の主な話であったが、興福寺の軒平瓦のそれは忍冬唐草文(にんどうからくさもん)である。
唐草文というのはサザエさんに度々登場する泥棒の風呂敷でお馴染みだが、その唐草に忍冬(すいかずら)の蕾のような文様が付いている。
これのルーツがエジプト、アッシリアにあるというから、古代文化の旅路の巨大さに圧倒される。シルクロードである。
わが家のすぐ出たところに忍冬(にんどう・すいかずら)がこの間から満開である。茱萸(ぐみ)同様野生で繁殖してきた。
正確には文様の蕾が忍冬とは特定できないにせよ、この忍冬の花を見ながら私の頭の中でははるか昔の西アジアに想像が飛んでいく。
誰が最初に汝を文様に採用したのだろう。
「令和」で触れたとおり、万葉の時代の梅はある種バタ臭い大陸文化の象徴であったという。
ならば古代の日本人はこの文様を見て、はるか西洋を感じていたに違いない。不思議なものである。いや、今見ても洋風でお洒落な花だと思う。
「令和」で触れたとおり、万葉の時代の梅はある種バタ臭い大陸文化の象徴であったという。
ならば古代の日本人はこの文様を見て、はるか西洋を感じていたに違いない。不思議なものである。いや、今見ても洋風でお洒落な花だと思う。
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