2019年5月20日月曜日

纒向の蛙

 4月28日にゾロアスター教を念頭に『悪なる創造物 蛙』を書いたが、その後なんとなく消化不良のまゝ来ているので続きを書く。

 若干繰り返しになるが、奈良の纏向遺跡中枢部近くの穴から、人為的に傷つけられた可能性のある蛙の骨が12匹分見つかった。
 「縄文から弥生時代の土器や銅鐸に蛙が少なからず表現されているが、これは大地の象徴として神聖視されていて神饌(神への供え物)だったのではないか」という辰巳和弘・元同志社大学教授(古代学)の言葉で朝日新聞の記事はまとめられていた。
 
 確かに土器や銅鐸に蛙が表現されているものがある。
 冬の間土中に隠れていた蛙が春に一斉に鳴きだす姿を「再生」の象徴と感じたであろう推測には異議はない。
 また、古い道教の思想では不老不死の嫦娥が月で蛙になっている。
 古事記では、大阪で神農さんの祭りとして馴染みの少彦名神が現れたとき、大国主命がそばにいた蟇蛙(ガマガエル)(多邇具久・たにぐく)に「あれは誰だ」と尋ね、「久延毘古くえびこ)(案山子)なら知っているでしょう」と答えたという。つまりここでは蟇蛙は肯定的に書かれている。

 と、ここまで言いながら「ほんとうに蛙がお供え物?」と私は心底からは納得できず、そこまで言うなら、冒頭に述べたとおり、様々な世界宗教の源流と思われ、紀元前12世紀ごろからまとめられたゾロアスター教の教義が「この世は善と悪の闘争の舞台であり、人間はこの闘争に参加する義務がある」と説き、そして例えば、犬は善なる創造物で蛙は悪なる創造物だと命じた事実の方が重くはないかと考え込んだりした。

   日本列島に話は戻るが、今に続く伝統でいえば、御柱祭りのように縄文の香りふんぷんたる古社の諏訪大社のお正月の大事な神事に蛙狩(かわずがり)神事がある。冬眠中の蛙を2匹掘り出して矢で射って神に供えるものだ。

 蛙に関わる古いところではそんなことしか私には思い浮かばない。
 なので単純に「故に蛙は神聖視されていた」と言い切るには少々消化不良の気分でいる。
 それに、「神聖なものを供えものにするの?」という素朴な疑問も解けていない。
 お供えは、美味しい料理や食材がよくはないのか?

 さて、そも纒向の地は大神(おおみわ)神社の聖域であり、和田萃氏の説くところ大神の神は原初は雷神であったとされている。雷神が龍になりさらには蛇になったという話は大いに肯ける。
 蛇といえば数々の縄文土器に表現されており、その脱皮する姿からそこに再生さらには不老不死をみた神話は地球上にこれもまた数多あるらしい。
 大神(おおみわ)に係る神話にも、活玉依姫(いくたまよりひめ)や倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の神話のように大物主の神が蛇体で現れる。
 現代でも蛇の信仰は「巳(みい)さん」といって広く親しまれている。

 もうお解かりのとおり、「神聖なものを供えものにした」という説明よりも、蛇神に蛙を供えたという理屈の方が文句なく納得できるがどうだろう。
 纒向の蛙の骨は、雷や雨の神の象徴たる巳(みい)さんに対するお供え物ではなかっただろうか。・・・今日はここまで。

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