わがブログ記事のことである。
週末に向け記事に少し息抜きさせてください。
鍋を見せたいので調理前の写真 |
で早速ジンギスカン料理の話だが、友人の娘さんが北大で、曰く「牛肉が食べたい」と親にSOSが来たそうだ。
それほど北海道では肉といえば羊だったらしい。ただし北大学生周辺だけのことだったかどうかは私は知らない。
信憑性には疑義のある番組だが、ケンミンショーの北海道特集ではひな壇で口を揃えて「肉はマトンだ」と叫んでいた。
そのジンギスカン料理だが、もちろんモンゴル人は「そんなものがあるの?」と腰を抜かして驚くらしい。モンゴルでは基本的に羊肉は焼かないそうだ。串焼きなどは中国東北地方の料理だという。
大阪・日本橋の『故郷羊肉串店』のオーナーは中国吉林省延吉市出身で、文字どおり彼の故郷の料理だとうたっている。
もちろん、ジンギスカン鍋という鍋(鉄板?)などもモンゴルにはなく「ジンギスカンの兵士が兜で焼いた」というのは俗説中の俗説という。
答は、ジンギスカン鍋を用いたジンギスカン料理は分類すれば日本料理ということになる。
となると、日本人として「ああ北海道の郷土料理ですね」などと看過しておくことはできない私であるから、簡易ジンギスカン鍋ではなく如何にも日本料理の調理器具という響きのある南部鉄製の正当ジンギスカン鍋を手に入れた。
そうして十分手入れをしたうえで、夏ちゃんファミリーを呼んで「鍋開き」を挙行した。
肉はラムでなくマトンである。
周知のとおり、ラムは1歳未満の仔羊。マトンは2歳以上の大人の羊でラムに比べて臭くて癖があるといわれている。
その臭み?が適当に飛ぶようにうまくできた鍋だと思う。私は気に入った。
検索などしてみたが、誰がいつこの鍋を考案したのかは謎のままだった。
夏ちゃんにクイズを出して「遊牧民族の鉄兜に似て・・・」と説明しても興味が湧かないようで、例によって花柚子を温州ミカンのように食べて喜んでいた。
妻は「またいらん物を買って」と不機嫌だったが、料理はおいしいと言ってビールを飲んでいた。
ようずかと母の尋ねる沈丁花
沈丁花の圧倒的な香りはときによっては重くもある。「ようず」とは雨もよいの生ぬるい春の風。ぼそっと「ようずやな」と義母が呟いた。春は気分が晴れそうで晴れない。才能なしは沈丁花とようずという季重なりの上にその主従も決めかねている。
昔モンゴルのジンギスカンの兵士は馬を何頭も引き連れて西へ西へと進軍し馬が倒れたら、兵士が倒れたら乗ってていたその馬の生肉を鞍の下に敷き、生肉を柔らかくしてそのまま食して進軍していたと言う話を作曲家の團伊玖磨氏の「パイプのけむり」の本で読んだことが有ります。その料理?がヨーロッパのタルタルステーキになり朝鮮のユッケの始まりだそうです。
返信削除全くジンギスカン鍋と言う料理名は誰が考えたのですかネ。
タタール人のステーキなる話ですね。羊の次は馬ですか。いいですね。
返信削除ジンギスカン鍋を作った人と時代が解ればご教示のほどお願いします。
北大の構内でジンギスカンパーティーをすることを「ジンパ」と呼びます。楽しかったです。火鍋で羊の肉をしゃぶしゃぶにして食べる店も北海道にありました。中国人の先生に連れていってもらいました。
返信削除mykazekさん、楽しい思い出をありがとうございます。
返信削除さて皆さん、Wikipediaの「松尾ジンギスカン」に次の文を見つけました。
1956年(昭和31年)に開業したマツオ(旧松尾羊肉株式会社)の創業者である松尾政治が考案した、羊肉を特製タレに漬け込む製法が好評を博し、その名が一気に全道に広まった。
開業当時、ジンギスカンとして北海道立種羊場(旧北海道立滝川畜産試験場)が推奨していたのが、羊肉をタレに漬け込んだ後に焼く形の調理法だった。松尾はそこに伝わる調理法を生かし、おいしさを引き出す工夫を重ねたとされる。松尾ジンギスカンは創業後、北海道内に最大250店舗のチェーン展開をするなど、北海道立種羊場が推奨するジンギスカンの食べ方を広く北海道内に知らしめた。STVラジオで放送されている『ほっかいどう百年物語』にも松尾が登場するなど、ジンギスカンを北海道の食文化の一つとして根付かせる一端を担った。
(中略) ジンギスカンをよりおいしく食べるために、マツオは南部鉄の老舗「岩鋳」製のオリジナルの専用鍋を開発した。熱伝導や焼け方にムラのない安定した焼き上がりになるように、現在も改良が加えられている。
日本では有名、誰でも通じる料理(名)の双璧が「ジンギスカン鍋(料理)」と「バイキング(料理)」だと思います。昔、組合の大会が北海道であり参加者全員でジンギスカン料理を食べ、店の方が「今晩〇〇頭の羊が天国に召されました」とアナウンスしたのには大笑いしました。
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