11月10日に書いた正倉院展が終わった。
そこでも書いたが正倉院展は人数が多すぎて古文書をゆっくり読む気分にならなかった。(それが俗人の俗人たる所以だろう)
さて昨日、小笠原好彦先生から「奈良時代の写経事業と皇后宮職」という講義を受けたので、少し古文書についての素人の感想を書いてみたい。
一番目の写真は「天平勝宝八歳六月廿一日監物帳」の巻頭と巻末である。
これを見ると、従二位の藤原仲麻呂、三位永手、四位福信のサインは五位以下とは大きさが全く違う。
私の職業生活の経験からも、だいたい役職によって決裁印の大きさには不文律のようなものがあった。そして、重要書類は印章ではなくサイン(花押)であったから、それもおよそ1300年の歴史だったのかと変に納得した。
(なお、奈良時代は花押でなく、そのものずばりの署名であった)
二番目の写真は天皇の決裁である。
右は天平勝宝9年であるから孝謙天皇の、左のは天平宝字3年で淳仁天皇の決裁で、いずれも「宜(よろし)とサインしている。
私の経験上は「了」というのはあったが「宜」は知らなかった。
雲の上ではあったのかもしれないが私は知らない。
その後、近世や近代の天皇がどういう決裁をしていたのかも興味があるが、ネット検索では出てこない。
正倉院展に戻るが、写経されたものが展示されていたが皆んな結構足早に読み飛ばしていてもったいない気になった。ただ私の感想を言えば、よく似たものが東大寺ミュージアムで展示されることがあるから、そこでゆっくり読むのがいいように思う。
東大寺ミュージアムでおかしいのは、お経は基本的に中国語なのだから中国人観光客がよく読んでいるかと言うとそうでもない。
観光客の興味の問題でもあるが、簡体字で暮らしてきた現代中国人には読み辛いのかもしれないと想像する。
とすると、台湾人が一番それを読めて、次に日本人、その次に中国大陸の中国人、そして韓国人やベトナム人は余程の学者でないとついていけないかもしれない。
そういえば私の小学校の教頭先生は「漢字廃止のひらがな派」であった。
私は文部省の方針で「歴史的に一番漢字を教わらなかった世代」である。
現代史の本を紐解くと当時の学者は大まじめに「戦時体制の思想と日本語(主に漢文調)の関係」について議論し、「今後はローマ字に統一しよう」とか果ては「国語はフランス語にしよう」と議論していた。
(漢文調の美文調がものごとの本質を覆い隠し、戦時体制への思想統制に少なくない影響を与えたとの反省から)
結果としては、私は漢字と日本語を維持してよかったと思う。
私のような無学なものでも1300年前の文書を何となく読めるのは世界では稀有なことらしい。
ただ、若い頃にもっとまじめに勉強しておけばよかったという後悔は今さら役に立たない。
紅葉と鹿とビルと自動車と
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