小笠原好彦先生の著作で、あまりのおもしろさにしばらくその読書に没入した。
8日には赤旗に、国立歴史民俗博物館仁藤敦史教授による書評が掲載され、そこには「大型古墳の被葬者を大胆に比定」という見出しが躍っていた。
「考古学による発掘成果と『記紀』の系譜をクロスさせ、あざやかに比定して見せた」「本書には、考古学と文献史学との関係を考える場合、問題提起的な指摘が多くあり、多くの人々に読んでいただきたい必読の書である」とあった。
小笠原先生に言わせると、「日本書紀を丸々信じ込むのは学術的でないが全く無視するのも学術的でない」ということだろう。
小笠原先生の講座に持参してサインをいただいた。宝物である。
その講座の会場でほぼ同世代の先輩と会った。
脳梗塞の後遺症だとかで少し元気を落としていた。
私も左手にしびれがあり、ドクターに脳梗塞の後遺症かもと言われているというと、「みんなそうなのか」と、ちょっと元気になったようだった。
昔は講座の後よく一杯やったのだが、私の方から「今日は止めとこ」と断った。
脳梗塞が解ったのは看護師であった奥さんの「発見」からであったらしい。
「物忘れ外来」から大学病院へ廻され脳のCTスキャンで判ったという。
同じ日、中学時代の同級生のEちゃんから古刹の「め」の「お守り」が届いた。
「同じ歳なのだからきっとあんたも目が弱っているだろう」との添え書きがあった。
正しい想像力である。
眼鏡なしでは新聞が読めないし、時々は妻の(ニセ)ハズキルーペを借りている。
同輩の数人からは「目がしんどいので本は読めない」「だからSNSも読めない」という言葉を聞くが、私の場合は本が読めなくなると「健康寿命」でなくなる。
で、「めの神さん」といわれていた堺の調御寺とこのお守りは大事にしておきたい。
「物忘れ」といい、「目」といい、「いっしょや いっしょや」である。
私は自転車で出かけるとき、家の前の歩道橋のてっぺんまでは自転車を押して上がる。そうすると、概ね駅前まではほゞ下り坂である。ということは帰りは上り坂。
また、駅前から先の老人ホームに行くには途中に坂がある。
そして昨日、駅前まで爽やかに下って来て、老人ホームに向かう上り坂で「電動アシスト」のスイッチを入れたら、なんと、バッテリーの装着を忘れていた。
私の「物忘れ」は「目」以上に重傷だ。
ご同輩の皆様、ご自愛ください。
鹿鳴いて句帳に留めし媼かな
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