2017年10月31日火曜日

72年前

   「歳をとると時の流れが速い」というのはジャネーの法則と言われている。
 「生涯のある時期における心理的な時間の長さは年齢に反比例する」その理由は「50歳の人間にとっての心理的な1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間のそれは人生の5分の1だから、50歳にとっての10年は5歳児の1年に、5歳の1日は50歳の10日に当たる」というものである。
 厳密には違和感がないこともないが、感覚的には何となく納得したりする。

 同じように、いささか思いつきだが、自分が誕生する以前の歴史を心理的に納得するのは大いに年齢に比例しているような気がする。

 72年前の戦争の時代のことである。
 例えば戦後1期生の私が小さい頃は、堺の街のあちこちが焼跡であった。
 洋館建ての家のあった跡地には綺麗なタイルが落ちていてそれは子供らの玩具であった。
 初詣やお祭りの参道には白い着物と軍帽をかぶった傷痍軍人がアコーディオンを弾いていた。
 何よりも、小学生になってからも町内で、外地から引き上げてきた軍人の歓迎会があった。
 それでも、客観的時間でいえばホンの10年少し前の「戦時中」というものを私は実感することは少なかった。

 それが20歳くらいのときはどうかというと、私が戦史などにあまり興味がなかったせいもあるが、「人間の条件」や「戦争と人間」などの素晴らしい映画に出会ったりしていたのだが、やはりどこか「歴史の教科書」もっと極端にいえば「時代劇」という感覚だった。

 さて先日から、集英社新書の2冊、西村京太郎著『十五歳の戦争――陸軍幼年学校「最後の生徒」』、澤地久枝著『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』を読み終えた。
 そしてこれが、どういう訳か自分が体験したかのように感覚的に理解できるのだった。
 つまり、歴史を感覚的に解るには一定の年齢がいるのかもしれない。
 しかし、だとすれば、人間が先人から学ぶということはほとんど不可能になってしまうから、そういう解答を是とするわけにはいかない。
 私が2人の体験を感覚的に理解できたのは、下地になるいろんな書物を読み重ねてきたからだろうし、その上に歳をとった、つまり様々な経験を積んできたからだろう。

 となれば、振り返ってみて、シニア世代が戦後民主主義をどう築いてきたか、どんな苦労や紆余曲折があったかを、今こそ書いたり話したりし続けなければならないように思う。
 言いたいことは、若い世代にとって戦後民主主義の成立過程も、若い私が戦前について抱いた感情と変わらないのではないか。
 そんな(若い)自分たちに対して「近頃の若いもんは」と言われてもどうしようもなく、事実、私たちは新人類と言われてきたではないか。

 職場でいうと、女子職員が日曜に出てきて便所掃除をするのは当然で、朝はお茶くみをして夕方には洗い物をしていた。それでも昇進は男子より遅かった。
 そんな理不尽はごろごろあって、それを青年婦人部は一つひとつ改善させてきた。
 だから昨日今日就職してきた女性が当然にそういうことを理解していると思うのはシニアの頓珍漢で、知らないのが当たり前なのである。

 先日の選挙の分析で「若者の自民党支持が多い」というのを各紙が報じているが、その責任は若者にはないのでないか。
 それよりも、若い世代に向かって書いたり話したりせずに、経験主義を繰り返すシニアこそ問われるのではないか。

    ハロウィンの季語にあるのに驚けり

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