2017年10月4日水曜日

踏み絵

聖母マリアの踏み絵
   「失望の党」のニュースに関連して「踏み絵」というキーワードをよく耳(目)にするようになった。
 この言葉は、クリスチャンにとっては恐怖と結びついた最も嫌な言葉だろう。
 一般に徳川時代のそれが有名だが、よく似た弾圧めいたことはほんの72年前まであった。
 「少年H」(妹尾河童)さんの家族も、大竹しのぶさんの家族もそうだったことは有名だ。

 私も縁あって聖母マリア様を信仰するカトリックの皆様と深くお付き合いさせていただいているから、弱いながらもその感覚は理解できているつもりだ。

 さて、共謀罪法案のときに私が反対した理由の一つは、この法律が信仰同様、人の心の中を裁くからであった。
 72年前までこの国では、兵隊に行って死亡したなら魂は靖国に行かなければならなかった。
 天に召されるのも、浄土に生まれ変わるのも許されなかった。そんなことを言う遺族は売国奴だった。
 その時代、真宗の教義に則って「戦争は集団殺人だ」と叫んだ僧侶、植木等さんの父の植木徹誠さんは治安維持法違反で投獄された(余談ながら植木徹誠さんは後に共産党員となった)。
 「踏み絵」というキーワードでそんなことをいろいろ思った。

   失望の党が民進党議員たちに踏ませた「踏み絵」が右の「誓約書」である。
 7の「民進党から政党助成金の分け前を貰ってきて〔失望〕に払え」というのもえげつないが、要するにこれを「転向の踏み絵」と言わずして何と言おうか。

 この間から私は政局の記事を書きながら「人生論を書いているつもり」と言ってきたが、読者の皆様には同意していただけるものと思っている。

 選挙になるとマスコミは、「この党はこんなことを言っている」とか「勝算はどうか」などという記事で紙面を覆う。

 しかしほんとうに大切なことは、その党やその人がどんなことをしてきた人(や党)であるかという検証ではないのか。

 きれいごとを並べられて、昨日まで嘘を繰り返し信念をくるくる変えてきた人や党が、今度は「きれいごと」を守ってくれると信じるのは、詐欺被害者のそれと変わらない。
 それに、女帝のツルの一声で物事を決めていく政党が民主主義的な政治をすると信じるのも非常識でしかない。
 選挙後に維新は自民と組むかもと自ら発表した。その維新と失望が選挙協力。
 だから「三つ巴」などではなく、(自公プラス補完勢力)対(共産と市民と野党の共闘)という対立軸がはっきりした。

    きれいねと名を問はれけり茗荷花

1 件のコメント:

  1.  その時代「忠霊神葬論」というのがあった。『聖職奉公のための戦死は生命奉還である。畏こみて大君の辺にこそ死ぬるのである。死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉るのである。若しその霊を阿弥陀仏に託して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である』と。

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