堺の街の中心部は水がよかった。
千利休の頃、当時の南宗寺の茶室の井戸は調御寺(ぢょうごじ)(現住所は堺区宿院町東4丁)の前にあったと記録にある。(旧堺市街の中心部)
つまり、利休はその井戸の水でお茶を点てていた。
今は国道上に調御寺の井戸枠が残っているがそれがこれである可能性は高い。
さらに調御寺には目神堂(もくしんどう?)があり「め(目)の神さん」として名高かった。
この井戸の聖水で目を洗ったのだろう。
それほどこの地の水の名水ぶりは有名だった。
なので、この一帯の名水は酒造業を発展させ、少なくとも天文年間には足利幕府に他所からの酒の持ち込み禁止を通達させるほど堺の酒造業は力を持っていた。
下って明治期には、ちょっと私には意外だったが、堺の製造業の第一位が酒造業であった。
なお、元禄8年の酒造家は108人とあったが、近世には販売先を全国や海外に向けて、そのために有利な灘に進出していった。だから、灘の名酒の中には実は堺がルーツという蔵も少なくないという。
そして見つけた大正元年の資料によると、調御寺のすぐ北、大町東3丁に酒造家大沢徳平氏の名があった。
先日、退職者会の秋の遠足で西宮の酒蔵を巡ったところ、幹事の素晴らしい着眼のおかげで大澤本家酒造の見学がなった。
江戸中期の明和7年に堺の宿院で創業し、昭和29年に灘・西宮に移転したというから私の手元の記録にある大正元年の大沢徳平氏がそれだろう。
大澤本家酒造は今も木造の酒蔵で、製造直売で、今では貴重なほんとうの手造りの酒蔵で感動した。
大手酒造なら「記念館」あたりで展示されている「昔の酒造り」のジオラマが今もそのまま生きていた。
ほとんど歴史の本どおりの酒造りだったし、社長の説明も「一番搾りも二番搾りも変わらへん」などと実に率直でユニークだった。
そして、お酒もお酒なのだが、近所?の奥さんが空き瓶(一升瓶)を持参してきて、酒蔵の玄関の小さなカウンターで直買いする姿も、ちょっとしたタイムスリップのようで楽しかった。昭和の「戦後」と言われていた時代の映画のような香りがした。
ここの銘柄は、寶娘(たからむすめ)だが、多くのお酒は、「純米大吟醸」だとか、「しぼりたて」だとか、「原酒」という、実に味気ないほどの普通名詞で売っているのもどこか可笑しかった。
冷蔵の古酒の冷たき瓶の汗
台風と国の行くへに浮かぬ夜
選挙期間中は少し政治向きの話題が全面に出たが、少しわがブログのコンセプトである馬鹿馬鹿しい些末な話題に戻ろうと思う。
返信削除と、思いながらも多くの友人から「次は頑張ろう」というメールをいただいて感激している。ほんとうにありがとうございます。明日のブログは西宮のえべっさんです。コメントが上手くいかないときはメールで送ってね。
今日の昼、「今度は参議院選挙から逆算して努力を重ねよう」と言いながら「その時はお互い何歳かな」と笑い合いました。
返信削除今度の選挙では、確かに共産党の議員は少なくなりましたが、わが地方では共産党も応援した無所属候補が、10回連続当選中の元農林大臣を2万票以上引き離し余裕で当選しました。私が小選挙区で投票した候補が生まれて初めて当選しました。「高知は田舎でイゴッソウが多いからだ」と言われるかもしれませんが、「自由は土佐の山間より生ず」と言う言葉もあります。少しうれしい選挙でもありました。
返信削除土佐は山原健二郎を当選させていた自由民権の地ですね。
返信削除まっこと土佐はすごいぜよ!大阪もがんばるよ!
返信削除やせ我慢ではありませんが「市民と野党の共闘」の将来にとって余分なものが除かれて
すっきりしたと思います。
黒田知事が3期目の選挙で敗れたとき、「勝利にまされる偉大なる敗北あり」と詠まれ
た事を思い出します。
河島英五が歌っていた野風僧(のふうぞ)は高知の言葉だと思っていましたが、念のため調べてみると「中国地方主に岡山県の言葉」と出てきました。高知では野風僧とは言わないですか。
返信削除野風僧と言う言葉は高知にはありません。代表的な高知の方言は、男性「イゴッソウ」、女性「ハチキン」です。良い意味でも悪い意味でも使われます。「イゴッソウ」=信念がある。節を曲げない。融通が利かない。頑固。等々「ハチキン」=活動的。男勝り。情熱的。女らしさがない。等々 年配の女性の人が良く使う高知の方言に「エズイ」がありますが、この方言は「コジャント=大変」難しい方言です。意味は「悲しい」「可笑しい」の両方がありますが立派に会話は成立しますから不思議です。しかし、若者は方言をあまり使わないので、すたれて来ています。私が若者に方言を通訳することもしばしばあります。
返信削除