16日にNHK歴史秘話ヒストリアが真田丸の堀を考古学的に調べていたが、実は私の(父親の)家は先の大阪大空襲までその堀の上にあった。
正確には堀の外(南側)かもしれない。
その地の旧家ということで、東高津神社の鳥居には父親の名前もある。
私は三男坊の末子ということもあり、あまりわが家の家系などに興味もなく過ごしてきたし、私自身が戦後生まれであるから、この地で育ったという郷愁もない。
しかし、その番組を見て少しだけ興味が湧いたので、過去帳の写しを眺めてみた。
すると、少なくとも11代前からそこに住んでいたようで、初代の妻が亡くなったのは享保年間(1716~)だった。
50歳で亡くなったとすると寛文年間(1661~)頃に生まれたことになるから、徳川第4代将軍家綱、5代綱吉の頃に大阪に住んでいたことになる。
なお、そのころ宗門改めの徹底がなされたというから、わが家の過去帳が整備されたのがこの頃ということで、もっと以前から住んでいたのかもしれない。
いずれにしても、大坂夏の陣(1615年)が終ってからそう遠くなく住み始めていた可能性が高い。
誰だって木の股から生まれたわけではないから、どの家系にも歴史はある筈だが、武家でももちろん公家でもない家で、たまたま過去帳の写しがあり、大坂夏の陣近くまで想像できたので、ちょっと感慨深いものがある。
真田丸の堀の南側というと、大坂冬の陣で幸村が大勝し、徳川の兵の屍累々だったと言われているが、大阪では元墓場の上に家を建てると商売が繁盛すると喜ばれていた。
冬ざれや浪速の丘の真田丸
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