2016年12月14日水曜日

持統三年十二月己酉朔丙辰

   カジノ法案が急展開した日にこんな呑気な記事をアップすることを許してほしい。

   さて、日本書紀持統天皇三年に「十二月己酉朔丙辰雙六禁斷(しはす つちのととり の ひのえたつ のひ  すごろくをいましめやむ)」とある。
 この記録を引いて清水ただし衆議院議員が国会で「持統天皇の689年以来この国では賭博は禁止されている」とカジノ法案を批判し、毎日新聞なども少し含み笑いをしながらもこれを報じた。

 この例えは、今回は清水議員発ではあるが以前に大門議員も引用していたもので、当時私は、枝葉末節のことながら、「持統三年十二月八日は西暦では689年ではなく690年ではないか」と大門さんのFBにコメントしたが、何方からもご教示はなかった。今回も私のFB等に載せてみたが同様だった。
 なので、もう一度自分で確かめようと調べ始めたが、いざ手持ちの本やインターネットでは材料不足で遅々として進まなかった。

 まず、日本書紀の中の暦にはいくらかの混乱があったりするところから引っかかってしまったが、結論を言えば、日本書紀の多くの部分は儀鳳暦で記述されているが持統三年時点は元嘉暦であることだった。ただし、持統紀の中でも「持統元年から五年まで」は結果として元嘉暦と儀鳳暦が一致するということだった。ここまで理解するのに時間がいった。

 次に「己酉朔丙辰(つちのととり朔 の ひのえたつ)」を確かめるのにあちこちの本を読んでみると、この意味は「この十二月の朔(一日・ついたち)は六十干支の己酉であり、その丙辰の日」つまり己酉から順に・庚戌・辛亥・壬子・葵丑・甲寅・乙卯・丙辰と六十干支を数えて「八日目」、つまり「八日」だということにたどり着くのにもひと汗かいた。

 以上で、「持統三年十二月八日」は確定した。
 次は「和暦・西暦換算」だが、ネット上に「和暦・西暦対照表」というのがあり、それによると、持統三年十二月八日はグレゴリオ暦(要するに西暦)690年1月26日、ユリウス暦なら1月23日、干支年は己丑、干支日は丙辰とあった。
 だが、他に同様のデータは見つからなかった。
 国立天文台か古代史学会あたりが公表してくれてもいいようなものだが、残念ながらその種の権威あるデータにはたどり着けなかった。

 そうではあるが、和暦(いわゆる旧暦)と西暦のおおよその関係は現代の暦からも推測は十分可能である。
 そこで、そもそも和暦(太陰太陽暦)の正月元日の決め方だが、まず最初に新月(朔)を一日(ついたち)として29日の小の月と30日の大の月で月が決まる。太陽周期との誤差は閏月で調整する。
 そういう「ひと月」を前提として、太陽周期(つまり1年)を冬至や立春や春分などというように二十四等分や七十二等分した二十四節気、七十二候の中の「雨水」を含む月が正月で、その頭の新月の日(朔)が正月の元日である。雨水は二十四節気の第2番目、正月中。立春の次が雨水。
 誤解が多いのは立春だが、立春は月の満ち欠けとは関係ない。だから、旧正月は立春の前後になることが多いがリンクはしていない。場合によっては、正月前の「去年」の内に立春が来ることがあり「年内立春」と呼ばれる。二十四節気、七十二候の筆頭が立春であることや、「旧暦では立春を基準に日を数え始める」というような記述が本の中に多いので誤解を生じることが多い。

 そんな薀蓄は聞かなくても、1月下旬から2月上旬あたりに旧正月があり、中国では大型連休で帰省の大旅行が起こったり、日本にも爆買いツアーがやってきたり、神戸・南京町や横浜・中華街で春節の獅子舞が出ることはニュースで誰もが知っている。

 ということは、旧暦(和暦もそう)の11月や12月の一部が新暦(西暦)の新年になっていることは誰もが感覚では十分に知っていることで、全くもって珍しい話ではない。
 だから、ネット上の「和暦・西暦対照表」はほゞ正しいと認めてもよいのでないか。
 普通、年単位で対照する場合は、「持統三年イコール西暦689年」で何ら差支えないのだが、以上のとおり、旧暦の年末近くになると、旧暦では未だ正月には達していないが、新暦では既に新年の正月(1月)ということになる。
 横道のついでに、新暦を太陽暦と呼ぶのなら、1月1日は冬至の翌日か立春の日にしておけばいろいろと解りやすかったようにも思う。これは横道。

 結論として、持統三年十二月八日は西暦では既に新年になっていて西暦690年だった。
 故に、真実を貴ぶ革新陣営の人々は、「誰かがそう言った」というようなことではなく、はっきりと「それは690年のことだった」と語ってほしいと私は思う。
 ただ、基本的に私は門外漢であるので、以上の説に誤りがあればご教示をいただきたい。

    冬の夜あっそうだったと独りごと

9 件のコメント:

  1. この記事は元来「数式」に弱いうえ干乾びかけた私の脳味噌では難しくてよく分かりませんでした。
    最後の一句は良く分かります。

    返信削除
  2. 以前私のブログに書いた「節用集」の歴代天皇の欄には、「持統天皇 ひのとのい元年 てんちの御むすめてんむのきさきなりざいい十年〇(一字不明)して位を文武へゆずりたまふ」と書いてあります。「ひのとのい」は「丁亥」で丁亥元年(687年)に即位したという意味だと思います。旧暦/グレゴリオ暦対照表では確かに持統天皇3年12月8日は690年1月26日となってます。ここの処はよくわかりませんが「旧暦と暮らす」をよく読めばわかるのでしょうがスノウさん同様、根気が続きません。

    返信削除
  3.  「旧暦の11月や12月になると西暦では新年になること多々ある」ということは納得していただけると思います。今年で言えば旧暦の12月3日が新暦の大晦日で、翌12月4日以降は2017年です。
     私も、再計算する根気は出てきませんが、対照表はまあ間違いないだろうと考えた次第です。
     「月遅れの七夕」とか「月遅れのお盆」という言葉があるように、新暦は旧暦よりもざっとひと月早いわけですから、持統3年12月8日が西暦の新年(690年)であっても全く不思議はないと思います。

    返信削除
  4.  門外漢のため、実はタイトルの「己酉朔丙辰(つちのと とり 朔 の ひのえ たつ)」がこの年の12月8日ということなのだと理解するまでに相当な時間を要しました。ここが納得できないと「対照」もなにもありませんから。
     それから、改めて太陰太陽暦の正月元日はどのように決められているのかも、なんとなく節分が旧暦の大晦日という誤解があったので、結構時間を要しました。
     アジアで、西暦で正月を祝っているのは日本ぐらいと言われています。自分の脳みそも含めて現代日本人は根無し草になっているように思いました。

    返信削除
  5. 「ひろさちや氏」の話では日本が太陰暦から太陽暦に変えたのは明治5年11月9日に明治5年12月3日を以て明治6年1月1日するという太政官布告が出されたからでこれには裏話があり当時、財政危機であったので維新政府は公務員給料を12月分カットを謀ったという事だそうです。そこでその年は旧暦で11月29日までしかなかったので12月1日を11月30日、12月2日を11月31日にするという別の布告を出したところこれはおかしいと言う事で取消の布告を翌日に出しましたが、結局どさくさに紛れて12月分給料はカットされたという事です。「維新」という名は昔からダマシ、ゴマカシのようです。

    返信削除
  6.  ひげ親父さんのコメントに「節用集には持統天皇ひのとのい元年云々とあり丁亥の年687年に即位と読める」とありました。
     さて、天武天皇は、天武15年(686年)7月に朱鳥元年と元号を復活しその9月に亡くなり、持統皇后が「臨朝稱制」して草壁皇子の成長を待って実質的に政治の実権を握った。
     この「臨朝稱制」を事実上の即位とみなすと、それは西暦で686年、和暦の干支で丙戌(ひのえいぬ)となるから節用集と合わない。
     次に、持統天皇が公式に即位したのは持統4年正月元日だからこれを正式な即位と見れば690年で庚寅(かのえとら)となる。なのでこれも合わない。
     さて、今の感覚だと、昭和64年の翌年は平成2年で、昭和64年イコール平成元年だが、日本書紀は天武の亡くなった天武15年(朱鳥元年)を閏12月30日までそのように記載し、翌正月元日からを持統元年にしているから、これを即位とみなせば西暦で687年で丁亥(ひのとい)となる。節用集はこれをとって持統元年=即位と書いたのでしょう。
     知らないことを少し調べ始めると底なし沼の感じがします。イクジイをしながら本を読んでいます。

    返信削除
  7.  スノウさん、明治の太陽暦導入時のせこい底意のこと、ほんとうにけしからんことです。
     おっしゃる通り、明治維新の多くの問題点をもっと明らかにする必要がありますね。
     司馬遼太郎の小説のお陰で「維新」という言葉がイメージだけで「改革」の印象を与えていることを批判する必要も。

    返信削除
  8. 節用集は今で言えば百科事典のようなモノで、史誌の類ではありませんので念のため。

    返信削除
  9.  節用集の性格について了解。

    返信削除