奈良・東大寺転害門の少し南に天平倶楽部という日本料理店があり、子規の庭という庭がある。
ここには江戸末期から大正時代にかけて對山楼・角定(たいざんろう・かどさだ)という旅館があり、著名な文人、学者、政府要人などが数多宿泊した。
正岡子規も人生最後の旅行の際、明治28年10月に4日間逗留した。
その時の日記に、「下女は、直径2尺5寸もありそうな大丼鉢に山の如く柿を盛ってきた。・・・柿も旨い。場所もよい。余はうっとりとしてゐるとポーンという釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は「初夜※が鳴る」といふて、尚柿をむき続けてゐる。・・・あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ」とある。
このため、このときの印象を温めたまま法隆寺に行って、かの有名な俳句を詠んだと言われている。
素人には法隆寺でなく東大寺でも一向に構わないと思うのだが、天平時代創建の東大寺よりも飛鳥時代創建の法隆寺にする方が空間と時間の広がりを感じさせると、ものの本にある。
つまり、素直に写生すれば、「柿食へば鐘が鳴るなり東大寺」なのである。
写真は東大寺勧学院近くの柿の木。東大寺福祉療育病院の前。
これでもかと東大寺の柿は言ひ
※ 初夜(そや) 広辞苑では「漏刻で亥の二刻から子の二刻までの称」とある。外に、「戌の刻。その時間に行われる勤行」や「夜を三分した最初の刻。その時の勤行」や「夜の最初の鐘(初夜の鐘)」という解説もあり、下女(実は子規の勘違いで對山楼の女主人との説もある)がどういう意味で使い、子規がどう理解したのかは私は知らないが、上述の日記(くだものという随筆になっている)に、「ある夜、夕飯も過ぎて後・・」とあるから夜の6時から8時頃と想像しても大きくは外れていないように思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿