一昨日に太陰暦と太陽暦に関わる記事を書いたからではないが、続いて陰と陽の話である。
古くは縄文の遺跡からも石棒(せきぼう)=陽石は出土し、豊穣を願う素朴な信仰と考えられているが、弥生、古墳、奈良時代、否それ以降もそれは多々ある。
秋に貝塚・寺内町をOB会で散策したときも、女性の願いをかなえてくれるという摂社を持つ感田神社の環濠跡の池の中にそれは屹立してあった。
「日本文化の根底をなしているのは道教である」とは故福永光司先生の指摘だが、その教えでは「陰陽二気が交わって和気を生じ、その和気が万物を生じる」という。
なので、少なくとも古墳時代以降は、「素朴な信仰」というよりも「道教」の具現化だったのかもしれない。きっとそうだろう。
そしてその思想は、現代でも脈々とこの列島で承認されているように思う。
蛇足ながら福永光司先生は「道教の教えの根源は飲食男女である」と述べておられる。
さらに余談ながら、日本中が儒教の教え、縦型の文化で統一されていた頃、大阪の文化、より正確には大阪の堺の文化だけがそれについて行かなかったと述べて西鶴まで論を展開されている。以上、余談。
陰石は春に遠足に行った春日大社の裏参道、水谷神社の前の道にもあり、「子授け石」との表示があるがあまり目立たないから、知らずに跨ぐと想定外のことが起こるかも知れぬ。
さて、大阪市内に仁徳天皇ほかを祭る高津宮(高津神社)がある。
歌舞伎役者の襲名のお練りの出発点であったり、大きな芝居の成功祈願でも有名な上に、上方落語「高津の富」で大阪人なら、少なくともその名前を知らぬ人はない。
そして、ここの本殿の周辺に摂社があったりするのだが、その一角に陽石と陰石が祀られている。
目的意識的に祀られたのか、結果としてそのように見立てられて後年祀られたのかは知らないが、きちんと注連縄と鳥居もある。
陰石の横に北新地奉納の燈籠があるのには、「いったい何を祈願したのだろうか」と想像を逞しくしたくなる。
「建立しよう」と言い出した人がいて、ああでもないこうでもないと意見が出て・・・・、そのいきさつに興味が尽きない。
北新地のホステスさんの守り神なのだろうか。男性客を吸い込んでしまおうというのだろうか。解らない。
北風や新地の名前の石灯籠
高津神社はよく知っていますがこの石灯籠は知りませんでした。ブログで見ると神社の東側にあるようですね。私のお気に入りは西側にある「相合坂」という名の石段です。左右どちらからも上がれ、左右同じ段数なので、男女が両側から上り上でピタリと出会うと相性がいいと云われています。息が合うということでしょうか。
返信削除ひげ親父さんはご存知でしょうが、西の坂はその昔三曲がり半だったということで三下り半、三行半の縁切り坂ですから、この神社はコース(坂)を間違えるとえらいことになります。
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