1989年、バブルの絶頂期に暉峻淑子(てるおかいつこ)氏の名著『豊かさとは何か』が著されたが、当時私は「西欧に比べて福祉が遅れているな」というような薄い感想で終わっていた。
しかし、それでもこの国で不満が爆発しなかったのは常用雇用の終身雇用制をベースにした、例えば住宅手当や扶養手当のように本来国や自治体が行うべき福祉の分野を「日本型雇用制度」に肩代わりさせてきた労働環境と一定の経済成長があったからだった。
反対にいえば、西欧では転職が普通だから、住宅政策や子育て政策や医療、介護等々のセーフティーネットは、全く当然のことだが国や自治体が全面的にカバーしてきたのだ。
それが、バブル崩壊によってというかそれを口実に構造改革論が唱えられ、労働の場からは非正規雇用ということで投げ出され、国や自治体は規制緩和、自助努力、民営化といって投げ出して、気がつけば若者に未来への希望が見えない社会の閉塞状況を生んで現代がある。
1989年当時でさえ、見かけの収入に比して住宅、休暇、労働時間、看護や介護制度等々の貧弱さが指摘され、経済力では問題にならないスペインの方が豊かな生活に溢れており、いわんや西ドイツや北欧おやと言われていたが、ようやくこの問題が理解されつつある。否、まだまだ「経済さえ持ち直せば再び・・・・」と理解は広がっていないかも。
つまり今こそ日本は、一定の経済成長と日本型雇用制度にかこつけて国や自治体が福祉行政の手抜きを続けてきたその結果が今なのだから、原点に返って福祉国家を目指さなければならないのではないか。
にもかかわらず、橋下維新は、福祉は無駄だと公言し、「無駄を省く、官から民へ」一辺倒で、かつてのサッチャーやレーガンが唱えたスローガンをオーム返ししている。
その行き着く先はアメリカの一部でもう始まっており、消防や警察までが民営化され、大金持ちは私設の警察に守られた城塞都市に住み、庶民はデトロイトのようなまるでゴーストタウンに捨てられている。
東京コンプレックスの大阪が大阪府でなく大阪都と言いたいとかそんなことは小さい話で、橋下維新の地方政治は弱肉強食のハゲタカタウン政策だと私は思う。
それの別名が「都構想」だし、彼にとってはその内容はほとんど意味がなく、府よりも都は何となくランクアップ、「無駄を削る」を呪文のように繰り返せば支持を得られる、激越な言葉を吐くほどマスコミ受けがするというもので、実際には利権に群がる「共同体」に公共財を売り払うもの以外の何ものでもない。こんなことは許せない。
「さよなら橋下維新」で福祉社会を目指そう!が私の願いである。
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