2014年12月17日水曜日

椎の実3粒


  近くの奈良大学の構内に椎(しい)の木があった・・と言って、妻が椎の実を3粒持って帰ってきた。マテバシイよりは小ぶりのスダジイの実だった。
 椎の実は古代人の好んだ食料だったから、・・古代史などが大得意な奈良大学であったから、・・それらを重ね合わせて推察するに、ほとんど拾われて食べられたのではないかと想像する。で、たった3粒だった。

  ものの本によると、椎の木の花は栗同様に臭いらしい。だから街路樹には向かないと読んだことがある。
 事実、旧住宅公団が開発したこの広い住宅地には様々な街路樹が植えられているが、椎の木は非常に少なく椎の実は拾ったことがなかった。
 3粒はそのまま煎って戴いた。
 美味しい美味しいナッツだった。
 去年はドングリグラッセを食べたり、ドングリ豆腐を食べたりしたが、それよりも格段に癖がなく美味しかった。もちろん、渋みも全くない。
 「お歳を召して丸くおなりになった」というのは誉め言葉とされているが、ちょっとはドングリみたいに癖のあるのも悪くはないはずだなどと椎の実を食べながら考えた。
 
 18日追記  そう遠くないマテバシイの木を見に行ってきたが、樹上にも木の下にも椎の実は落ちていなかった。
 ただ、そこの樹木のプレートには「スダジイやツブラジイよりは味が大味だが、待っているとそのうちに美味しくなるからマテバシイという」と書いてあった。初耳なので帰ってから調べてみたら、「葉の形がマテ貝(マテバ貝)に似ているから」「葉の形が中国の馬刀の刃に似ているから馬刀葉椎」と一緒に「待てば美味しくなるから」とも書いてもあった。「待てば美味しく・・」はこじつけだろうとの説明もあったが、昔の人は自然を深く観察し承知していたから、「この実は少し待った方が美味しい」というのは案外正解かもしれないと想像して楽しんでいる。

3 件のコメント:

  1.  中学生の頃通学路の側に椎木が自生していて椎の実を食べた記憶があります、不味いものではなかったと記憶していますが、取り立て美味しいものとも思いませんでしたが、とても懐かしい思い出として残っています。長いこと忘れていましたが、数年前、義兄が大仙公園で拾ってきて炒ったものを何十年か振りで、懐かしく食べた記憶を思い出しました。
     最近では昔競って食べていた木の実等は見向きもしない、喜んで良いのか?不思議な気がすると田舎の知り合いが言っていました。
     その昔こんなに美味しいものが自分で採って食べたものが見向きもされないとは信じられない気もしますがこれも時代の流れなんでしょうかね?何か勿体ないような気もしますが年のせいでしょうか?

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  2.  chinunoumiさん、文章からすると生で食されたのですね。
     本には「椎の実は生でも食べられる」と書いてありますが、私は煎って食べます。
     昔、生駒の宝山寺門前の屋台で煎ったのを売っていました。
     いろんな自然の贈り物が今では見向きもされない不思議は同感です。

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  3.  本文にマテバシイについて追記しました。

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