古い友人から良いニュースが届いた。
誰もが名前を知っているメジャーなフィットネスクラブを相手にした6年越しの裁判を高裁で勝利したというものだ。
だが、施設の欠陥によって負傷させられた治療を認めさせるだけで6年余の時間と精神的負担が必要だった。一言で「精神的負担」と片づけられるレベルではなかった。
私も民事裁判を行ったことがあるが、原告であっても精神的負担はきつかった。そういうものなのだ。
審理が慎重に重ねられるのは良いことだが、正直にいって「もっと早くどうにかならんものか」という感が大きい。
さて、袴田氏の再審決定と釈放も朗報だが、冤罪のために人生の主要な48年を拘禁と死刑執行の恐怖の下に押し込めていたことの検察と司法の罪は重い。
それを思うとテレビのニュースを見ながら涙が出てきた。
ところがところが、検察庁はそれを抗告したのである。
それはただただ組織の面子だけだと言われている。
佐高信氏はそういう人を「社畜」と呼んだが、的を射ているような気がする。
だがしかし、自分がその立場に立てば、会社や官庁やそういう組織の上からの意思に抗してどれだけ背筋を伸ばしていられるかというと、多くは自信がないだろう。
私はそれが保証されるためには働く現場に真の労働組合が必要だと思う。
ところが此の頃、この、「使用者と労働者は元々対等ではない」「故に労働法が存在するのだ」という民主主義のイロハのような原則が軽んじられている。
袴田さんの人生という物差しで考えると、検察側の面子だけで抗告することは人道に反する罪ではないだろうか。
先日、和歌山大学学長の式辞を掲載したが、学長はマルティン・ニーメラー牧師の言葉を引いて、民主主義をむしばむ些末な出来事に不寛容の意思表示をすることの重要性を強調されていた。
あまりにひ弱で小さい声ではあるが、このブログをもってささやかながら私の意思を表明しておきたい。
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