花の盛りは10日/365日もない |
買被ってもらうと困るので正直にいうが、私には俳句の素養はない。これは大歳時記の桃の項で見つけた句でしかないし、短冊はパソコンで作成した。
4月某日、妻が「はい、ラブレター」と言って私に何かを手渡した。
それは、「高野素十の句、有難う存じます。私も、素十の句が好きで、ことにこの句! 額に仕立てました。お心づかいに感謝です。いつもお庭のお手入れに感心いたして居る者です。」との便箋と四つ葉のクローバーの押し花だった。ポストに投函されていたらしい。
恐縮というか恥ずかしさでいっぱいだが、ここは素直に喜ぶことにしよう。
いわゆる新興住宅街。そして、コミュニティーの活動に積極的でもない私だが、この街もまんざら捨てたものでないと言ったところだろうか。
職場同僚というような文句なしの人間関係を卒業し、地域の老人会に入るには未だ抵抗のある端境期で、どちらかというとデジタルのソシャールネットワークの方に関心が行っていたが、こんなアナログの最たる『短冊』から、知らぬ人と知らないままで心が通いあうのも嬉しい。
庭の木に短冊を提げるなんて、おっちょこちょいの極みかも知れないが、何もしなければ何も起こらない。
また少し、人生が楽しくなってきた。
いやー、けっこう々、風雅のわかる御仁がいるようですな。
返信削除江國滋の「俳句とあそぶ法」をみると我が国の俳人人口は百万人から八百万人とあった。アバウトもええところだが、これをとりあえず「風雅のわかるお方」と勘定しても相当な数である。
返信削除とすると、「いるようですな」ではなく街中は風雅なお方であふれており、私の方がそれから遠い野暮な少数派なのだろう。
で、「誰でもできる」「遊べばよい」という氏のおだてに乗って一句。
さりながら急ぐ用なし木の芽どき 艸田老
どなたか添削をお願いします。
課題はいっぱいあるのである。仕事はいっぱいあるのである。しかし怠け心は「私一人が休んだとしても」などという屁理屈をつけて「まあ今日のところは急ぐ用でもない」とサボり、木の芽どきの私の心はなんとなく沈むのである。
返信削除「くさたろう」と読もうか「そうたろう」と読もうか。