2014年4月6日日曜日

御諸山の神

  花見を兼ねてOB会で三輪山周辺を散策した。
 幹事長の発した今回のテーマは『古代のロマン・纏向遺跡と酒の神様・大神神社』で、清濁併せたなかなかの企画だった。
 この地に卑弥呼がいたかどうかの議論は確定していないが、日本(倭)という国家発祥の地であることには誰も異を唱えていない。
 しかしながら、参加者の興味は幹事長の思惑とは別に後者のテーマにあるらしかった。
 
 さて、記紀神話では、天皇家に繋がる天孫の神がこの国を造ったのではなく、大国主神が造った国を譲ってもらったことになっているが、そういう、国譲り以前の国造りのときの話として、古事記は、大国主神が最初は少名毘古那(すくなびこな)神と国造りをしていたが少名毘古那神が常世国へ去ってしまい困っていたところ、「私を祀ればそれはできる」という神が現れ、それが御諸山(三輪山)の上に坐す神だと述べている。
 素直に読めば、出雲の首長と三輪の首長が原倭国を造り、それを天孫の首長(後の天皇)が譲ってもらったということになるが、それは史学や考古学の定説にはなっていない。
 ところが書紀では、後に現れたその神に大国主神(大己貴神:おおなむち)が「貴方は誰だ」と尋ねたところ、「私はお前の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)である」と応えて三諸山に住み、それが大三輪の神だと言っている。
 このロジックが私にはなかなか感覚として理解し辛かった。
 大国主神の本体は出雲にいるが、大国主神の霊力を分解して、祟ったり災いをなすような荒魂(あらみたま)を除いて、和魂(にぎみたま)=幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)だけになった大国主神が大三輪の神だというのである。なかなか哲学的である。
 しかし、書紀はそう言っている。
 そして、大神神社はその説を肯定したうえで、その拝殿にはその神語を唱えるよう書かれている。
 『幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)守りたまえ幸(さき)はえたまえ』と、
 で、私は3回唱えてお参りをしたが、同僚の皆さんは「それはどういう意味?」と尋ねてくるような興味すら一切お持ちでなかったから、私も私の疑問に思う点などを語るのをやめておいた。
 ずばり、同僚の興味はもっぱら御諸山の神よりも、今西酒造の『三諸杉』の方であった。チャンチャン。

2 件のコメント:

  1. 以前長谷やんのブログで知りました岩波新書村井康彦著「出雲と大和」を読みました。門外漢の私も大変面白く発想の転換を感じました。但し予備知識が貧しく解らない部分も多く、いやほとんど理解できないと言っても良い位ですが、倭人伝の水行十日陸行一月を瀬戸内海で無く日本海行程と解釈し京都府久美浜上陸説・三輪山を中心とする邪馬台国を出雲氏族の国で「田原本町」に遺跡があると推理されたり、出雲軍と神武軍が生駒山周辺で激戦を繰り広げた等雑学の好きな私は講談調で読ましてもらいました。

    返信削除
  2.  三輪氏が大和の政権下で働いたこと、欠史時代に三輪氏関係の妃が多いことから出雲三輪同盟説は少し疑問がありますが無視もできないと思います。
     出雲の大国主=三輪の大物主から、三輪は大和に残った出雲だという説もあります。残った出雲=三輪は政治には口出しをせず、祭祀・権威を担ったとも考えられます。
     国譲りの後出雲はフェードアウトしていきますが、三輪山の神は古墳時代まで活躍?します。その一人オオタタネコは堺あたりの渡来系です。
     このあたりでスノウさん同様、頭の整理がつかなくなります。
     ただ、邪馬台国、卑弥呼はいずれブログに書かなければと心の奥の宿題になっています。

    返信削除