2014年4月11日金曜日

時代の終わり


   小笠原好彦先生の「家形埴輪」の講義を受けた。
 講義の中心中の中心は、前方後円墳上で行われた、先の首長の葬送儀礼でもあり、新たな首長の首長権の継承儀礼でもあるセレモニーにとって、如何に重要な意義を家形埴輪が持っていたかということだった。
 家形埴輪(形代:かたしろ)は他の形象埴輪(次の世で用いるもの=明器:めいき)とは質の違う使われ方をしていたという。
 その説の証左としていろんな事実を挙げられていたが、馬王堆漢墓の棺に掛けられていた布(写真)は、その時代の思想(ずばり道教)を見事に表しているとの説明には説得力があった。
  ちなみに、左の写真の解説はネットにあったもので小笠原先生の説とは異なっている部分があるが、今日はその解説は割愛する。要は「この通り無事に神仙界へ昇天して不自由なく暮らしてくれますように」との思想のもとに古墳は荘厳されセレモニーは行われたと先生は言う。

 講義の帰りに友人と、「あの葬送儀礼の話は我々は辛うじて感覚的に納得できるが、子供たちの世代には理解に時間がかかるやろうねえ」と話し合った。
 先生は古墳の前方部で共食をしたなごりや、行きと帰りに同じ道を通らなかったなごりがあるという。
 そういう、葬祭やお墓参り、お寺詣り等々の小さなしきたりを我々はぼんやりとでも知っているが、子供たちはほとんど知らないで大人になっている。(私と友人だけのことかも知れないが)
 そして、子供たちは父となり母となっているのだから、孫の時代には私たちの経験は異邦人の話になるだろう。
 
 人類の歴史の上で、産業革命と現代のIT(デジタル)革命は画期をなしていると私は勝手に思っている。
 博物館などで遺物を見ると、各種金属器などは弥生から昭和30年代まではほとんど同じではないかという感慨を持つことも少なくない。
 住宅環境も街の佇まいもそんな感じがする。
 ただし、次の世代は我々が予想できなかったような時代を作るだろうが、我々が伝え聞いてきた古い感覚を問答無用で拒否して痛痒を感じないような気もする。
 それが吉なのか凶なのかは私には判らない。
 ある時代が終わろうとしていることだけは確かである。

 さて、先日の三輪路のハイキングの折り、桜井市立埋蔵文化財センターに立ち寄った。
 確かに、多くの円筒埴輪、形象埴輪が土中に埋める土台部分を持っているのに対し家形埴輪だけにはそれはなかった。
 そのことは、「他の埴輪については築造時にすでに完成(建築)していたが、家形埴輪だけは儀式のときに用いられたものだ」という小笠原先生の説を納得させる。
 また、家形埴輪には屋根の部分を粘土で盛った形と沈線で描いた形の2種類あるのも、先の首長の分(形代)と新たな首長の分(形代)という先生の説どおりだった。
 こういうように正当に首長権が継承されたことをアピールするために、中後期の前方後円墳には前方と後円とのくびれ部に「造り出し」が造られ、首長権の継承が正当に成立したということの記念物=証拠のジオラマ(埴輪群)が見せるために並べられたとの説(古墳の上では見えないから)も理解できる。
 高槻市の今城塚古墳(真の継体天皇陵というのが学説)(ここでは「造り出し」でなく堤の上に祭祀場が「これでもか」というように荘厳されている)に、もう一度行ってみる必要がありそうだ。

1 件のコメント:

  1.  この記事で一番言いたかったことは、「弥生時代から昭和30年代ぐらいまでは大雑把にいえば同じような時代だった」ような気がするということで、天井裏にはネズミが居たし、それを食べる蛇も珍しくなかったし、料理は炎でしていたし、家の周辺には田や畑や漁港があった。
     愚かな私などは、弥生どころか今でさえどんな鉱石からどのように金属製品を造ればよいかわからないが、真空管の時代には黒くなった真空管を交換するぐらいのことはできたが、今では身近な機器の修理もできなくなった。
     何か「時代が終わった」と感じる所以だが、そんな風に思うのは私だけだろうか。

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