2013年10月26日土曜日

解らない 添御縣坐神社

三碓の・・・
  我が家では、お正月にはお屠蘇が醒めると、その地の産土神(うぶすながみ)に詣でることが多かった。どちらのご家庭でもよく似たものだろう。
 奈良市の西部に住んでいたときには、近く(三碓:みつがらす)の添御縣坐神社(そふのみあがたにいますじんじゃ)に行っていた。
 小山を背に、南北朝時代の社殿が綺麗に現存している式内大社で舞台もあり、小さいけれども立派な神社だった。
 トンドにあたりながらお屠蘇を戴いた。

歌姫の・・・
  その後奈良市の北部に転居した折には、近く(歌姫:うたひめ)の添御縣坐神社に行って、ここでもトンドやお屠蘇を戴いた。 しかし、添御縣坐神社だと?・・?#$%&??
 ・・・・、「何か前の神社とよく似た名前の神社やなあ?」「あちこちに八幡神社や春日神社があるように同じような名前の神社なのかなあ?」と気にはなりつつ、それほど気に留めずに・・・過ごしてきた。
 ほんとうはここで「おかしい」と気づくべきで、その辺が鈍感だった。

 そしてその後、・・・・少しばかり歴史を齧りだすと、当時のその疑問がやはり気になってきたのでここに書いてみる。

 県(あがた)とは大王(天皇)家の御料地のようなものらしい。
 なかでも、大和の高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六つの県は王権の中心地にあって歴史も古く、それ故にその御縣に坐す神々は大切にされていたように延喜式の祝詞には書いてある。
 そのため、各御縣には「坐す神社」があるのだが、・・・ハテ、なぜ、曽布(添)県(そふ(う)のあがた)だけには二つあるのか?
 少なくとも延喜式の時代には二つあるとは書かれていないから、とすれば延喜式の添御縣坐神社はいったいどちらなのか?
 この辺りのことについて最も詳しいのではと私が思う歴史学者千田稔先生も、「どちらが延喜式に書かれている添御縣坐神社なのかは解らない。」と書いておられるが、「平城京は添御縣に造られた・・という仮定にたてば大極殿の真北近くに鎮座している歌姫の神社かも。」と、やや歌姫寄りのように見受けられる。
 私の結論は、・・もう一度自分の目で確かめに二つの神社を廻ってみたのだが、・・結局よく解らない。三碓説も捨てがたい。
 で、ただ、ごくごく私的には、二つの添御縣坐神社で何回もお神酒を戴いてきた我が家としては「どちらでも構わない。」という、ええかげん無責任な立場に立っている。
 こういうことについて、昔なら徹底して自分なりの見解を主張するところだが、古代史あたりを散歩してみると、「判らないことは判らない。」と思えるようになってきた。
 それが、成長した結果なのか、ズルくなったからなのかはワカラナイ。きっと後者だろう。

 さて、歌姫の方は、氏子の長老が一年交替で神主となり、任を終えると十人衆と呼ぶ宮座に入るらしい。
 どう考えても中世のしきたりがそのまま連綿と受け継がれて今もある。
 全く「新日本紀行」の世界である。
 そして、どちらの神社もすぐ近くに住宅地が迫っている。そのコントラストがなんともあはれである。
 そして、私はといえばいつも迫っていく住宅地側の新住民で、こんな記事を書いていると、そんな自分の根無し草ぶりが少々寂しくなる。
  といって、伝統の重い田舎暮らしは窮屈そうで出来そうもないのだが。

3 件のコメント:

  1.  自分の根無し草ぶり・・・と書いてみて、振り返ってみると、私は転居を6回、7つの住所を渡り歩いてきた。
     これが非農民である一般サラリーマンとして多い方なのか、普通なのか、自分では見当がつかない。
     この客観的には非定住性が、返って伝統的な遺物や行事にあこがれを抱かせるのかもしれない。

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  2. 分からないついでに大阪の通称「陶器神社・ざま神社」の正式な名は「坐摩(いかすり)神社」だそうですがどこをどう読んだら「いかすり」なのか???

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  3.  広辞苑では「居所知(いかしり)の神とは大宮所を守る神でざまのかみとも」とあります。
     白川文字学では「坐は土地の神の左右に人が座る形。摩は両手をすり合わせること。」とあります。
     そうであれば、「います神(かみ)に手をする神社」を何でも短くする大阪人が「いかすり神社」にして万歳万歳というのは飛躍しすぎでしょうか。勉強してみます。

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