ゲーム時代の若者は、現実問題にチョット躓くと、青春や人生(というほどの年月でもないが)をリセットしたいと願望するらしい。(その辛さが解らないわけでもない。)
しかし、それが「その後に身に着けたノウハウでもう少し上手い生き方をしたい」ということだとしたら少し寂しい。
若者達には、リセットではなく「無駄」な失敗を重ねて「螺旋状の発展」をしてほしい。
ということを「縄文の世界像」の展示を見ながら考えた。
さて、縄文土器には蛙の絵がしばしば登場する。
それは何故かという解釈には百家争鳴の感がある。ほんとうに百家争鳴だ。
私は、・・・卵からオタマジャクシになって蛙になって土の上に上がってくる。・・・縄文人は、そこに、ある種のアウフヘーベンを感得したのだと思っている。
これは、博物館の縄文土器のエネルギッシュな文様に圧倒されながら見学する中で、学術的・論理的ではなく、感覚的に感じとった我が珍説である。
古代人も、変身願望があったんや。己がレベルアップを目指していたんや・・と。
とすると、アスナロがスギになるよりも、オタマジャクシがカエルになるのは目前の驚異的出来事で、そこに、及びもつかない、信じられない力を感じ畏怖したのだと思う。
それをカミだとかアニミズムだとか精霊だとかに分類したがるのは後世の人間で、古代人は素直にそんな蛙にアヤカリタイと念じたような気がする。
それぐらいの感動がなければ、あんなエネルギッシュな(カエルの)文様は誕生するはずがない。
縄文の展示には、弥生にない“わくわく感”があり、岡本太郎が乗り移ってきたような昂揚を感じる。
こういう感情は、本やテレビからは湧いてこない。
!これは、usukuchimonndou.blogspot.com/ への返歌のつもりです。
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