2012年10月21日日曜日

笠の蕎麦畑

  あくまでも「日本書紀に書いてある」というだけのものだが、最初、天照大神は宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の時に『笠縫邑(かさぬいのむら)』に移され、第11代垂仁天皇の時に菟田(うだ)や近江や美濃を経て伊勢に落ち着いた。
  この記述の意味するところは何か? 如何なる歴史的事実の反映か? というのも興味は尽きないが、今日の話はその『笠縫邑』に行って一面の蕎麦畑を見てきたというだけのこと。
  そこ(桜井市笠)は、相当な山深い里ではあるが、初期ヤマト王権(人によると邪馬台国)の所在地、この列島の最初の首都と考えられている纏向遺跡や箸墓古墳の裏山といえなくもなく、文献だけの時には「何故そんな笠縫などという大田舎に???」と思っていたが、実際に来て見ると「ああ、とりあえず裏山に祀ったのか」と何となく書紀の話もチョットうなずける。
  国営総合農地開発事業で標高500㍍あたりの農地一面が蕎麦畑に変り、JA?女性部が中心のそば処(笠そば)が賑わっていた。美味しく満足した。
  余所の事業は知らないが、もしかしたら、この種の事業では珍しく貴重で見事な成功例ではないだろうか。(あちこちで成功しているのならごめんなさい)
  そば処の前が日本第一・笠山三宝荒神の参道入口になっており、以前に参った以降「竃の事故」のないことのお礼を言っておいた。

  蛇足ながら、私は日本三大荒神??の笠山荒神、清荒神、立里(たてり)荒神に参拝した。
  その中の立里荒神は、百を越えた実母が「もういっぺん登ってみたい」と何度も何度も言っていた山で、高野山の東の奥、奈良県野迫川村荒神岳にある。
  自動車道路が開通していなかった頃、そこは霊気に満ち溢れていたのだろうが、今では笠山荒神同様、普通のお社になっていた。
  という話を実母にするのは酷だから、実母の語るお籠もりの朝の雲海、御来光、鳥の声等々の思い出に「うんうん」とうなずいておいた。
  来夏あたり、そんな報告を立里のお山にしに行かなくてはならない。

6 件のコメント:

  1. おお、きれいな蕎麦畑ですね!

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  2. !蕎麦畑を美しいと感じる人は縄文焼畑農耕民の末裔でしょう。
     弥生人の末裔は水田に安らぎを覚え蕎麦畑に草はらをイメージします。
     近頃、流行遅れの感がありますが、堺の「ちくま」の温かいざるそば1斤半を私は好きでした。出汁をとったあとの鰹節で一杯やるのも・・・・。
     mykazekさん コメントありがとうございます。

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  3. 私は圧倒的に『大阪うどん-けつねうろん』(誤記ではありません)派ですが悲しいかな、最近の大阪うどんは讃岐手打ちうどん派に押され衰退の道をたどっているように思います。腰の無い、頼りない、あの大阪うどんはどこに行ったのか~。でも「ちく満」とお初天神の「瓢亭」の温かくて柔らかいそばは別格です。大阪人好みのそばです。あ~また食べたい。

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  4. !江戸でも大坂でも蕎麦はうどん屋で出されていたが、蕎麦専門店の誕生は大坂の砂場が最初であった・・・と本渡章著「大阪名所むかし案内」にあったのは意外でした。「摂津名所図会」に見る砂場蕎麦の繁昌振りには驚きます。

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    1. 今は移転した大阪西監督署の近所の南新町公園に「ここに砂場ありき」の碑があります。また、南堀江公園に「勧進相撲興行の地」の碑もあります。この近所の「幸橋」の畔に日本茶専門の喫茶店があり、おいしいお茶を淹れてくれます。

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  5. !これ程までに伝統の蓄積された大阪に、どうしてあのように非文化的な市長がいるのでしょう。
     結局、テレビ等のマスメディア自体が持っているサブリミナル効果なのでしょう。
     それは、酒席の議論では、正論であるかどうかよりも、必ず酒癖の悪いものが勝つことに似ているようにも思います。
     この国は、いま酒が過ぎた悪酔い状態なのでしょうか。
     ひげ親父さん ブログを頻繁に更新して上方文化を語ってください。

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