近鉄奈良線で大阪に通勤している人は、瓢箪山駅を出てから直ぐ南側の窓の外に大きなグランドと鉄製の工作物を見るともなく見ているが、その工作物こそは何を隠そう1年に1度だけ使用される河内音頭の櫓である。こういう景色はこの河内の地には無数にある。
そういう、日常風景の中に当り前のようにあるいくつもの櫓が象徴しているように、河内の街には「河内音頭〇〇節家元」という様な表札(看板)も多く、ケンミンショーで取り上げられても不思議でないくらいのものである。
この辺りのことがらは是非友人の「ひげ親父」さんにブログで書いてもらおう。
さて、河内音頭の有力な源流が江州音頭であり、その有力な源流が祭文語りにあることは研究などしなくても耳で聞けば判ることであり、奈良の北部ではその三者が競合せずに交じり合っている。
そこで、昭和の前半の生駒谷ではどうだったのかを昨夜義母からビールを飲みながらいろいろ聞いてみた。
盆踊りはお寺や広場ではせんかった。
新盆の家を廻って一晩中踊るんや。
新盆の家は前庭に行灯付きの竹を立て、行灯は六角形で切紙を貼ってあった。切紙を作る店もあった。
呼んできた「音頭とり」が真ん中の台の上で文句を読んだ。
太鼓や楽器は何もなかった。手拍子だけやった。
踊手は赤いタスキで袖を留めていた。
掛け声は、エヤコラセードッコイセ ヨイトヨンヤマッカドッコイサーノセ やった。
みんなお盆休みを楽しみに働き続けてたから盆踊りは楽しかった。
子供らは回りで見ていただけやったけど・・
・・・という「講義」を元に妻がスケッチしたのが右上の絵である。
ビールの力もあって義母が踊って見せてくれたのは、有名な「河内マンボ」(注)の膝の使い方そのものであったが、そこには、河内音頭が「芸」になる以前の、・・・念仏踊り、祭文語りの、神仏と共に居る精神がまだまだ満ち溢れていた昭和前半の生駒谷のフォルクロアがあった。
(注)今東光氏がその著書で、「河内音頭の踊りはマンボだ」と表現した。
なお、河内音頭は、その節も踊り方も無数にある。
「河内マンボ」はそのうちの一つの踊り方である。
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