2021年4月24日土曜日

北面した天子

   小笠原好彦著『古代近江の三都』は読み切るのに時間がかかった。特に時間がかかった保良宮について印象を述べたい。

 保良宮は、天平宝字5年(761)10月中旬、淳仁天皇・孝謙上皇が平城宮から遷都し、天平宝字6年 5月23日に淳仁天皇・孝謙上皇が不和となり、平城京へ遷都するまで京(みやこ)であった。

 これについて続日本紀は平城宮の改作のためだったと記しているが、本質は、安禄山の乱という唐王朝の混乱に乗じて、藤原仲麻呂が渤海と連絡を密にして、新羅出兵を計画したものであったと考えられている。

 さて保良宮の位置であるが、考古学的見地から、石山寺の北の『田辺台地』に宮が、その北の石山国分台地に諸官衙が設けられ、その北の北大路の北側一帯に保良京が造営されていたとみなされると著者は述べておられる。

 限られた遺跡発掘の結果はそうなるという。京の北は琵琶湖、そしてその向こうは新羅や渤海である。戦というものはきわめて合理的思考で組み立てられるものだから、そういう面でも保良宮・保良京の復元案は首肯できるのだが、私がどうしても割り切れないのは、これでは天子が北面しているという一点である。ほんとうに「北面もあり」だったのだろうか。

 著者のこれまでの諸論では、藤原宮は京の真ん中に宮があり古く周礼(しゅらい)を踏襲したものだった。しかし、長安城は京の北辺に宮があり天子は南面した。遣唐使らは必ず「藤原京では時代遅れ、田舎者よと馬鹿にされる」と報告したであろう。故に平城京遷都がなった。

 また、恭仁京は唐の副都洛陽に倣った。さらに難波京も、この時期の京は全て?「天子南面」であった。そこで、百済や渤海の使者が保良京に来た場合、やはりこれでは蛮国だと笑われるのではないか。私の疑問は道半ばのままでいる。

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