義母がお世話になっている老人ホームの同じグループに100歳の元気な方がおられる。
この方とは、私の実母がいた頃から一緒に歌を歌っていたりしていたのだが、近頃は私の義母への面会が減っているので、少しばかり疎遠になっていた。
それでも、私は面会の折り、他の入所者ともできるだけ挨拶を心がけているので、入所者からはたまに施設のスタッフと誤解されたりするが、概ね義母の娘婿という了解(理解)は同じ部屋の方々には得ていたつもりだった。
それが先日、その100歳の元気な方が私に「あんた若いなあ」と言ってくれたので、それは一般的な意味での社交辞令・リップサービスかと思ったら、続けて、「〇〇小学校やったな」「あんた運動場をよう走っていたな」と話が続いたので、実はこの方は今、小学校低学年の頃を思い出し、そして、私を同級生の誰それだと思っているということが判った。
だから、「歳(同級生だから100歳)のわりに若いやないか」と真正面から私に感想を言ってくれていたのだ。
で、私は迷った。
気持ちよく私を同級生だと思いこみ、思い出を噛み締めているこの方に、「あなたは誤解してますよ」と言うのが良いのか、100%同級生になっておとぎ話の世界で会話をするのが良いのか。
結局、あははと笑って、「Aさん(その方のお名前)も運動場走りはりましたん?」「小学校は面白かったん?」と私のことではない別の話に誘導し、なんとなく楽しく会話を終了することができた。
かつて実母が私に、「あんたが生まれたときはエライ雪の日やったな」と、本気で私に向かって大人どおしの会話をしてきたことがあった。
妻も母(私の義母)から、同じように「あんたが生まれたときはエライ台風やったな」と同意を求められたことがある。
生まれたての赤ん坊と成人してからの息子や娘が時を超えてオーバーラップしたのだろう。
早い話が「惚け」なのだろうが、最初にそういう会話があったときには「そんなことも判らんようになったのか」と少しショックだった。
健康寿命後の長寿は望まないが、その際はせめてAさんのように楽しい思い出の中で彷徨いたいものだ。
腹の立った思い出ばかりをフラッシュバックさせて、怒りながら晩年を過ごしたくない。実際には可哀相だがそのような方もおられない訳ではない。
そのためには、その予行演習が必要だと此の頃感じている。とても大事なことだと噛み締めている。
日曜日、老人ホームの家族会で小一時間、庭の落ち葉掃きをした。
巨大ゴミ袋で20袋ほど清掃したが、その翌日妻が「皆はどこを掃いたん」と私に言った。
1週間前の日曜日の昼からは風雨だったので、カナダ楓(かえで)の枯れた実がいっぱい落ちていた。
春の庭ぽとりぽとりと楓の実
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