前回の記事では「老後は土いじりが好い」というようなノーテンキなことを書いたので、今日はノーテンキでないことを書いてみる。
このテーマは「何時かは書かなければならない」とズーッと心の中で燻ぶっていたがよう書かなかったテーマだったが、私の愛読している『和道おっさんのブログ:今を仏教で生きる http://wadou.seesaa.net/ の4月28日付の「人が逝けない社会」や5月1日付の「老いと衰弱をどう生きるか」』に触発されて、ようやくほんの少しだけ書いてみることにする。
1945年8月15日、狂信的に信じ込まされてきた社会の嘘がばれ催眠状態から解かれた多くの市民は、再び騙されないようにと皇国史観とともに古い宗教的な信仰心を捨て、その代わりに人生を幸せに彩ってくれる(筈の)自然科学を選択した。だから、そういう昭和人の子である私たちは小さい時から「科学の子」として育った。・・・と思ったりする。
その「科学の子」達が人口構成上爆発的に高齢層を形成し、国家と財政の無駄の根源のように指弾され、濃淡はあっても死の影を感じ、絶対的な神もあの世も信じられず、科学の粋のように見える延命治療を施されて、「逝けない時をどう過ごすか」悩んでいる。・・・・・ような気がする。
といって、真正面から考え抜く努力もせず、このテーマはあまりに心を重たくするからと横に置いておいて、健康管理によって「人に迷惑をかけない」期間を延し、根拠もなくポックリといきたいと信じ込み、刹那的な娯楽や安らぎや「再就職」に日々を過ごしている。・・・・・ような私たちである。
先日・・・、右の写真に掲げた『平穏死のすすめ』を読んだ。
以前には買う気にもならなかったタイトル名だし、あえて貴重な時間を憂鬱にすることもないと拒絶していたが、実母の老々介護、そこの施設での「看取り」に接した経験を経たせいか、非常に穏やかな気分で、内容の一つひとつに納得しながら読み終えることができた。
書かれてある内容を飛び越えて私が思ったことは、現代のこの国では(私と読み替えてもよいが)、死ぬということは哲学の問題であるのに、そこの思考をサボって医療技術のようにすり替えて議論しているうちに、残酷極まりない延命治療(治療でも何でもない)という不幸が蔓延したのではないかということ。
そういう外形上の「やることはやった」という偽りの「正義感覚」は、この国の各方面で見られる無責任と同じ構造であるということ。
少なくとも私は、私の哲学と責任で対応し、虚飾の「できる限りの責任を果たした」というような道には逃げたくないということだった。
しかし、宿題は二つ残っている。
ひとつは、特別養護老人ホームを増やすとともに、終着駅に相応しい介護を実現する運動を大きく具体化しなければならないということ。
このためには、保育園や学校が公共施設として当然であるように老人ホームも公共施設として必要なのだという世論をつくることが大切だ。
さらに、職員の待遇に裏打ちされた数と質の向上も本気で議論されなくてはならないが、この本の中には貴重な経験が報告されている。
さらにさらに、それらのためには、予算の抜本的な配分、つまり、この国をほんとうの福祉国家にするための政治の転換が必要だ。当たり前だ。
もう一つは、私のような「ひねくれ者」は、第4コーナーを曲がったからといって、中世のお坊さんが考えたような仏も浄土も「あえて信じよ」と言われても信じられないから、そんな共同幻想というようなレベルでない心の平穏を悟らせてくれる仏教の教えを考え抜きたいこと。とすれば、「極楽浄土が近づいて来たからと言って喜びが湧き上がってこない」という弟子の質問を肯定した親鸞聖人の言葉が一番身近な気がする。・・・・・というのが私の現状。
はっきり言えば、生の終了が怖いからと言ってあの世や浄土を信じるふりをするのは信仰としても邪道というかレベルが低いように感じて仕方がない。
というほど私の話は、そして心は、「中途半端やなあ~」で進行形であるが、とりあえず、ご同輩諸侯にはこの本の一読をお勧めする。
「大往生したけりゃ医療とかかわるな――自然死のすすめ――」(幻冬舎新書)という本もある。
早速、「平穏死」を読んでみました。結論から言うと基本的に「平穏死」の考え方に賛成します。この本の中で「自然死を知らない医者」の項は納得してしまいました。本人の意思を無視した延命治療は本人にとって、大変苦痛を伴うものであると思われます。又、認知症のリハビリのことで、テレビで見ましたフランス生まれの認知症ケア「ユマニチュード」の技術がもっと普及していけばよいなと思いました。終末期医療が延命に重点がおかれている状態は改める必要があるように思います。これから、もっともっと高齢化が進むわけですから、自分の意思が反映されないまま、死を迎えないように、自分の死の迎え方をエンデイングノートに記ししておくことと、それがきちんと反映される制度などがあればいいなと思いました。寺院も葬式仏教ではなく、生きている人々の道しるべになるべきなんですが、修行の足りない身としては、暗中模索の状態であり、これぞ、死を迎えるにあったての悟りの言葉は見当たらないのですが、一つ言えることは、普通に生きてきた方は結構いい感じで死んでいくと思います。ですから、死を怖がらなくてもいいと思います。
返信削除dyougoziさん、真正面からブログを読んでいただきありがとうございます。
返信削除偉そうに書き始めてみたものの私の思いは中途半端で終わっています。今日も人間ドックに行ってきました。「大往生・・・」の著者中村仁一先生が「手遅れの幸せを満喫するためにはがん検診や人間ドックなどを受けてはいけません」と書いてあるのを読んでいてもこうです。
dyougoziさん、生きる道しるべとしての仏の道を法華経はどのように説いているのでしょう。機会があれがご教示ください。
さて、「今までが 見えたが不思議 目を病めば」。当たり前のような日常に感謝することの大切さを近頃感じています。ただし、その精神が権力者の横暴に「見て見ぬふりをする」口実に使われないように注意しながら。
dyougoziさんの勇気あるコメントに脱帽しています。私はまだ、「第4コーナーを・・・」を読み切る勇気がありません。「生」への執着が特にある訳ではなし、だが、ガンを宣告されたらどうしよう、という事も考えたくない、という現状はやはり「中途半端」なんでしょうか?ただ、これまで生きてきた中で、親しい友の死に際し「何でお前で俺ではないのか?」という場面は何度かありましたが、正直、そこまでです。
返信削除私が和道おっさんのブログで一番強烈に教えていただいたことは、「親というのはその死を見せることによって子に無常を教えるのだ」という主旨の言葉でした。
返信削除真理というのは何と残酷なものかと考えましたが、だからこそ真理なのでしょう。
この諸行無常を達観する人生観が老年期を豊かにするはずです。
そこを避けて刹那的に生きるのも、もう高齢者だからと消極的になるのも私は望みません。
読者の皆さんのご意見を戴けるのは嬉しい限りです。