近頃のネット社会は便利なもので、すぐに文字や動画でその内容の輪郭を知ることができ、その理論で強調されている大切な指摘と現実の効果に目が覚まされた。
そんな中、21日に、和道おっさんのブログ (http://wadou.seesaa.net/article/397522357.html) が正面からこの問題が取り上げようとされていて感心した。
そんなお二人の問題提起に触発されて、上っ面だけではあるが感想を書いてみたくなった。
(ユマニチュードについては解説を省くので文章なり動画なりを検索してもらいたい。)
実母の介護を終え、現在進行形の義母の介護を振り返りながら考えるユマニチュード理論は、「ほんとうにそんなに即効があるの?」と少し疑いながらも基本において非常に納得させられた。
一言でいえば、介護(看護)する者とされる者という立場上の関係ではなく、人間対人間としてのコミュニケーションが思わぬほど劇的な効果を上げる・・ということだろうか。
実母が昼夜逆転していた時に、このことを知っていたらもう少し違った局面があっただろうかとも思う。それはもう解らない。当時私はその家族介護に疲れ果てていて、正反対の対応をしていたように憶えていてその記憶は辛い。
義母は現在、ユマニチュードの動画等に出てくるほど深刻な状態ではないが全生活にわたって意欲は低下していて施設に入居しており、1~2週間に一度程度外泊に帰ってくる。妻がクルマで連れて帰ってくる。
その時は私の顔を見ると抱きついてくるので、私も「ようお越し」と言ってしばしハグをする。そして、手を握ってゆっくり歩く。その時のそれは施設に行ったときに見ている状態よりも力強く感じる。
ただ、そのあとはほとんど我が家でも寝たきりになってしまうのだが、私はできる限り日向ぼっこに引っ張り出して昔の生活を尋ねる。
何回も何回も聞いたことだが、「足ふみの杵と臼」で米を搗いた話、それを「誰がなんぼ搗いた」と兄弟喧嘩になる話、遊びすぎて水車の米搗きをし過ぎたら(終了させに行くのに遅れたら)粉になってしまうこと、等等々、その時の顔には生気が返ってくる。
そういう乏しい経験からもユマニチュードで述べられている話は肯ける。
ほんとうに上っ面だけの感想だが、介護や看護に従事してみようと思った方は、ユマニチュード的な介護技術は聞いたこともあり、そういう初心はあるはずだと想像する。
しかし、少なくない施設では人出が不足していて、かつ生活を賄うだけの十分な収入は得られていない。
だから一言でいえば、体制に余裕がなく、職員に心の余裕を問うのも酷な気もする。
輻輳するナースコールを思うと、丁寧なコミュニケーションは言うは易いが難しい。定員不足と成果主義では上手くいかない。
でもこれ(ユマニチュード)はきっと正しいことだと信じられる。
そして、ユマニチュードは介護職員だけでなく家族も実践することが大切な課題だと思う。
そのためには、こんな私のような上っ面の話でなく、しっかりと学習することも必要だろう。
同時に、結論を急ぎすぎるかもしれないが、ことあるごとに「福祉国家を」「軍事費を削って福祉の充実を」との声をあげることが大切なような気がする。
明日は介護をされる側である。
介護施設のベテランの方に尋ねてみたところ、「日本ではまだ検証されていない」と少し冷ややかだった。
返信削除そうかもしれないし、その内容は日本の介護理論の中でも既に強調されてきたものかもしれないが、実際の現場というものはこういう感覚なのかもしれない。