「展望日本歴史4」の白石太一郎論文の図 |
そんな問題意識があったから、大阪府立近つ飛鳥博物館春季特別展「ヤマト王権と葛城氏」を見に行き、その時代の出土品などをじっくり観察した。
そして、以前に受講した小笠原好彦先生の「考古学からみた古事記と葛城氏Ⅰ」と「Ⅱ」を思い出しながら、平林章仁著「謎の古代豪族葛城氏」を読み返した。
そこで感じたことを散文的に羅列してみると・・・、
「応神の実在性については、埼玉・稲荷山の鉄剣の文字から、雄略に仕えた臣下でさえ8代にわたる系譜を所有していたのであるから、倭国王が同様の系譜を持っていなかったはずがない。
神功の夫である仲哀は雄略から7代前で、世代ではわずか4世代前に過ぎない。
だから、「古事記の素材となった「帝紀」「本辞」は天武当時存在していた。」との小笠原、平林両先生の意見に説得力を感じた。
さらに小笠原先生は、「百済記等の記録からも古事記に書かれた「葛城襲津彦」は実在した。」と述べ、「それは今日的に言えば襲名する「屋号」のように、ソツヒコA、ソツヒコB、ソツヒコCだった。」と大胆に指摘され、馬見古墳群の大規模古墳である「築山古墳がソツヒコAの、室宮山古墳がソツヒコBの、新木山古墳がソツヒコCの墓である。」
さらに、「巣山古墳はソツヒコAの父の武内宿禰の墓、島の山古墳は神功皇后の母葛城高ぬか姫の墓。」と、出土品等々から指摘される論は整然としていて納得した。
ここで読者の皆さんは、皇国神話の主人公の一人である武内宿禰や神功皇后が実在??と驚かれるかもしれないが、私は記紀については、天武、持統、藤原不比等らの強烈なフィルターが懸っているが、骨格部分の要所要所には微妙な史実が反映されているように思っている。
戦後民主主義の下で全く無視され鼻で笑われていた記紀を、考古学と照らし合わせながら科学的で民主主義的な目で捉えなおす必要があるのでないだろうか。
記紀を右翼や改憲派の専売特許にしてはならないと思う。
内容に噛み合って批判もせず鼻で笑うだけでは、金儲け(観光)と復古主義に乗っかって2020年に向けて繰り広げられるであろう『日本書紀編纂1300年』のキャンペーンに対抗できなくはなかろうか。
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