龍谷大学がデジタル再現した石窟の壁画 (ミュージアムで、この回廊の中を通ることができる) |
龍谷ミュージアムは浄土真宗の本山・西本願寺のミュージアムで、館長は龍谷大学の先生のようである。
その館長のツイート(つぶやき)に誘われて龍谷ミュージアム春季特別展『チベットの仏教世界--もうひとつの大谷探検隊--』に出かけてみた。
それは、私などが慣れ親しんできた(というほど慣れ親しんではいないが)中国経由の仏教と異なり、インド直輸入の色彩が濃いようで、「こんな仏教もあるのだ」と驚くだけで、頭の中のまとまりがついていない。
「その仏像・仏画ってヒンドゥー教の神様でないの?」というような戸惑いをいくらも覚えた。
私は勉強不足で密教というものが解っていないが、「まあなんと仏教とは幅の広いものか」というのが感想である。
というか、感覚で言うのだが、日常生活上の宗教の占めるウエイト等々でいうと、仏教世界の中では日本の浄土系の仏教の方が少数派ではないのだろうか。その中の乏しい経験という針の穴から覗いたチベット仏教の世界は戸惑いの方が大きかった。
あるいは、もしかしてこの(チベット仏教の)現状肯定観は、詭弁を弄せず堂々と妻帯した親鸞の思想の源流だったのか。・・解らない。
これまでの理解では中国発祥の道教だとばかりに思っていたいくつかの概念が、実はここにあったのかもしれないという新たな宿題が頭の中に残った。
さて、チベット仏教というとどうしてもダライラマを避けて通れないが、私の好みに合わない新興のお寺あたりによくダライラマとそこの教祖?が並んだ写真や品々が飾ってあったりして生理的に好きになれないでいる。
ただしこれは、非常に個人的な印象の問題であり、それ以上に論じるだけの知識は私にはない。
それはさておき、帰りに真宗大谷派の東本願寺にも寄ってみたところ、工事中の御影堂門の塀に脱原発と秘密保護法反対の声明が掲示されていた。
全国の各寺院が門前にこういう掲示をすれば素晴らしいだろうと思いながらまぶしく眺めて帰った。
家に帰ってから無性に渡辺一技さんのチベットの本を再読したくなったが、書架のどこにも見つけ出すことができなかった。
確か渡辺一技さんは「私が死んだら鳥葬がいい」と書いていた気がする。
代わりに色川大吉著の「雲表の国」が出てきた。
こちらには、日本人調査隊員が鳥葬にされた経過が半ば怒りを込めて書かれていた。
その一日、私の頭はチベット漬けでくらくらしたままだった。
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