2014年5月25日日曜日

日暈(ひがさ)は吉兆?

  3年前から我が家の初夏の指標は、卯の花(ウノハナ)と杜鵑(ホトトギス)に定まっている。
 その根拠は「夏は来ぬ」の歌にあり、この歌詞を現実に確認することでこの季節に誕生した孫の名前を再確認するからである。
 卯の花(空木の花)は非常に種類が多くて諸説あるが、写真の卯の花は我が家の庭で大きくなりすぎたのを思いっきり小さくして植木鉢に移したもので、比較的可憐な感じで気に入っている。
 杜鵑は夜明け頃に窓の向こうから聞こえているが、一度ばっちりと写真に撮りたくて、先日(5月18日)、大和郡山市の大和民俗公園に行ってみた。
 狙いどおり杜鵑が鳴いており、望遠レンズで狙ったが、新緑の奥からなかなか姿を現してくれず、突然飛び出してきて私の頭上を飛んだ時にはシャッターが下りず、絵に描いたような杜鵑の勇姿は網膜に焼き付けただけで終わった。 
 大和民俗公園に行ったのは、そこにある奈良県立民俗博物館の「国際博物館の日記念講演会」が主目的だったので、開会までに結局杜鵑は撮れなかった。
 ただ、杜鵑の飛び去った真昼の空には日暈(ひがさ)(白虹、halo)(太陽の周りに丸い虹)がかかっていた。
 その写真は帰って来た時には忘れてしまっていて、単純に「杜鵑を撮りそこなった空」と思い込んで瞬時に削除してしまった。
 日暈は吉兆ともいわれるが、この日の私にはそれらしい兆しは何もなかった。

 講演は、帝塚山大学名誉教授赤田光男先生による「奈良県の民俗」で、内容はいろいろ興味深かったがそれは置いておいて、話の脱線部分で、「浄土真宗の家は近代的合理主義なもので古臭い民俗が残っていないので面白くない」と呟かれたのが民俗学者の本音だろうと可笑しかった。
 しかし、戦後資本主義・拝金主義の方が、村をダムの底に沈め、後継者を村から追い出し、民俗行事や信仰の行事を村ごと消滅させつつあるように思う。
 多くの民俗行事に横たわる非科学的な迷信を是とするような思考方法は、結局為政者に騙され社会の発展を阻害するのだろうが、祖先が感じたり祈ったりした素朴な感性が闇の向こうに消えてしまうのも寂しい。
 また弥生時代等先史時代を解く鍵も民俗行事や信仰の欠片の中にあるような気が私にはしている。
 「年寄り一人は図書館一館に匹敵する」ということをどこかで読んだ気がするが、私たちは欠片を集めることを急がなければならない。

3 件のコメント:

  1.  「卯の花」と言えば「おから」。夏の女性と言えば「夏女ソニア」bayもんたよしのり。思考回路が短絡的になりました。非科学的な民族行事の役員の一年生として頑張っています。
     先日妻と二人で、二人とも生まれて初めて、水平に美しく輝く「虹」(学術用語では「環水平アーク」と言うそうですが)を見て感動しました。

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  2.  5月4日に現れたそうですね。貴重な体験をされたのですね。きっと、素晴らしいことがあったことでしょう。
     珍しい出来事を瑞兆ととるか凶兆ととるかは人それぞれですが、時節柄大地震の予兆と騒ぐ向きもあるようです。原発大国での大地震はもう御免ですね。

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  3.  バラやんへ、私が「横たわる非科学的な迷信」と言いたいことは、ある種の宗教行事上で女は穢れていると言ったり、医学を否定してまじないで病気に対処したり、天皇を神の子孫と言ったり、神国日本と対応させて隣国を蛮国と言ったりすることです。
     反対に、神仏を前にして、人智の小ささを悟り、日々の生活を神仏に感謝したり神仏を喜ばせようと重ねられてきた神事や宗教芸能等は大好きなのです。

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