ご存知のとおり、古事記の最冒頭に、「神はまず最初に淤能碁呂島(おのごろじま=淡路島)を作った」と記されている。
そして、そのことについて、つまりなぜ古事記を生んだ王権の中心地の畿内ではなく淡路島が第一に生まれたのかについて、それは海洋民であった記憶であるとか、重要な御食つ国(みけつくに)=天皇の食材を献じる国であったためとか等々、多種多様で大きな議論が専門家によってなされている。
しかし、堺の市街地で育った私には、何となく稗田阿礼等、伝承してきた人々の気持ちが素直に判るような気がするのである。
それは、1960年代の高度成長が始まる以前、堺市街の東には大山古墳(伝仁徳天皇陵)がそびえており、西の海の向こうには毎日淡路島がそびえていたからである。ほんとうに近くに見えていた。
そこは、つまり、はるか北九州から韓半島及び大陸を臨んで西に伸びる瀬戸内海は、大和の首都、そして大阪湾の副都(正式あるいは事実上の。そして一時的には首都でもあった。)にとって、新しい文物の入口であったからである。
我が国の国道第1号線は、難波宮(なにわのみや)から大道(だいどう)を真直ぐ堺に向かい、堺から東に飛鳥に向かった竹内街道(たけのうちかいどう)であった。
だから、この国道や大物流経路の大和川を行き来した畿内の王権にとって淡路島は、毎日すぐそこに見えている正門の城壁に見えていたに違いない。
となると、もう一方の大山古墳(伝仁徳天皇陵)を筆頭とする百舌鳥古墳群は、上海やドバイが競ってタワーや高層ビルを建てたがっているように、「どうだ。」と見せつけることを非常に意識した人工的構造物の性格が強いことが、これも素直に理解できる。
上海やドバイ(に限らないが)の都市設計思想は、古墳時代の堺のそれとよく似ていると、私は一人笑っている。
今般の堺市長選挙の中で、大阪府知事でもある維新の会松井幹事長は、伝仁徳天皇陵にイルミネーションをつけて世界遺産に認めてもらおうと主張している。
恥ずかしくて批評する気も起らない、ついていけない意見である。実現性も100%ない。
ともあれ、政令指定都市になった堺という大都会で、古墳や歴史的建造物等を保護し整備するのは困難ではあるが、竹山市長の政策の重要な柱に、「自然と歴史の再生」という項目が建っているのは嬉しい。
竹山市長を応援する人々が、「堺はひとつ 市民のマーチ」と銘打って伝仁徳天皇陵をぐるっと一周する大行進を23日に行った。息詰まるような選挙戦のさなかになんと愉快なことだろう。
真夏を思わせる炎天下のマーチ(行進とは言わず)でしたが堀の横を歩くと一瞬涼しい風が吹いてくれました。選挙、選挙していないところが何とも爽やかでした。
返信削除大阪市生野区にも御勝山古墳がありますが真ん中に道路が通っています。
返信削除堺や南河内の大きな古墳がお濠に水を溜めて全景を残しているのはほんとうに貴重です。
歴史に興味がなくても、政令指定都市の市街地にこんな自然がありヤンマが飛んでいる贅沢は外から見ると羨ましいかぎりです。
写真の参加者は町内会の役員さん等々の市民である。
返信削除だからデモ行進ではなく市民のマーチなのだ。
でも、無言で歩くのは寂しい。
そこで、シュプレヒコールではなく、思った人が思い思いに大きな声で独り言を言うのが自然発生的に広がった。「堺のことは堺で決めるから、大阪市長は放っておいてほしい。」「そやそや」という具合である。
笑いに包まれながら市民運動の広がりを実感した。
この行進は記事で見ましたが、こういう広がりがあるというのはすごいことですね。
返信削除ドバイと上海の高層ビルの話、これはおもしろい着眼点ですね!
港町の遺跡をめぐってみたくなりました。
イスタンブールにクリミア、いろいろめぐってみたいものです。
mykazekさん、いろんな人がいろんな方法で頑張る・・というのがいいですね。
返信削除大阪労連傘下の人々も、指示がなかっても堺に行こう・・と思ってほしい気がします。(もちろん堺に行かなくても頑張る方法も大いにアリですが。)
さて天皇陵ですが、当初その多くは葺石で覆われ埴輪が並べられた、極めて人工的な構造物だったと言われています。
それを、江戸時代後期から明治時代、「それらしく厳かに」ということで松などを植えて鳥居まで作ったのです。ですから私は、大型古墳のひとつぐらいは調査したうえで創建当初のように復元したら素晴らしいのにと思っています。
お化け屋敷は夏の縁日の風物詩ですが、マスコミが育てたお化け「維新」の化けの皮がますますはがされています。
返信削除秋風とともにお化け「維新」を吹き飛ばしたいものです。早く消えてなくなれと-------。
dyougojiさん、同感です。
返信削除でも、市民が立ち上がらなければ勝手には消えてくれません。
そして、画期的な市民の連帯が生まれています。