2013年9月13日金曜日

晶子からの伝言

  どんな立派な物を造っても売れなければ何の値打もないということなのだろう、確かにCMの役割は小さくない。だから、CMすべてが悪者だとは決して思っていない。
  ということで、いわゆる秀才が集まってバカバカしいCMに、大袈裟に言えば命をかけているように想像するキンチョーに代表されるそんなCMを私は好きである。

 「バカバカしい派」の作品ではないがテレビCMで美女が「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と詠っていた。
 本歌取り狂歌の精神なのだろうか、きっと「このクルマに触れもしない君は・・・」と言うのだろうが、映像が美しすぎて晶子の歌がBGMに終わっている。
 それでは、与謝野晶子の生家のすぐ近くで育った私としてはちょっと寂しい。
 私は中学校時代、ちょっと肩に力を入れて3年間を過ごしてきた。
 だから柔道部顧問でもあったいかつい国語の先生が、「海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ)となりし父母の家」を私に当てたとき、私が先生の予想に反して感情を込めて詠ったので驚かれ、ちょっとツッパッテいた分、反対に自分が恥ずかしかったことを覚えている。
 「潮の遠鳴り」と言えばそのとおりで、朝早く布団の中に聞こえてくるのは焼玉エンジンのポンポンポンポンという出航の音だった。それが旧堺市街の高度成長以前の普通の音風景だった。かろうじて私は、晶子と同じ音風景を共有したのが自慢である。
 
 晶子と言えば、「君死にたまふことなかれ」の詩がある。
 その歌碑は晶子の母校、現府立泉陽高校の庭にも建っている。
 この詩を「反戦歌」というように単純に言うのは好きではない。
 ただ、明治37年という時代に、いわゆる公序良俗、安寧秩序、男尊女卑に一切怯むところなくこの歌を発表した勇気はいくら称賛してもしすぎることがない。とまれ、すめらみことさえ難詰しているのである。
 竹山堺市長が中世の自治都市が堺のDNAだと言われたりするが、晶子の歌の精神はもう一つのDNAだと思う。
 そういうDNAが今般の市長選挙で「維新はダメ」という形で発揮されるに違いない。それが晶子からの伝言である。

 この詩は大好きな詩なので、講談社版で以下に掲げてみたい。
 明治37年という背景を頭に描いて読み直すと、長いものに巻かれろと繰り返す現代の風潮に抗う勇気が湧いてくる。私たちは晶子の何分の一かの勇気さえ忘れてはいないか。

    君死にたまふことなかれ
 (旅順の攻圍軍にある弟惣七を嘆きて)

 ああ、弟よ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ。
 末に生まれし君なれば
 親のなさけは勝りしも、
 親は刃(やいば)をにぎらせて
 人を殺せと教へしや、
 人を殺して死ねよとて
 廿四(にじふし)までを育てしや。

 堺の街のあきびとの
 老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
 親の名を繼ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ。
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても、何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家の習いに無きことを。

 君死にたまふことなかれ。
 すめらみことは、戰ひに
 おほみづからは出でまさね、
 互(かたみ)に人の血を流し、
 獸の道に死ねよとは、
 死ぬるを人の譽れとは、
 おほみこころの深ければ
 もとより如何で思(おぼ)されん。

 ああ、弟よ、戰ひに
 君死にたまふことなかれ。
 過ぎにし秋を父君に
 おくれたまへる母君は、
 歎きのなかに、いたましく、
 我子を召され、家を守(も)り、
 安しと聞ける大御代(おほみよ)も
 母の白髪(しらが)は増さりゆく。

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
 あえかに若き新妻を
 君忘るるや、思へるや。
 十月(とつき)も添はで別れたる
 少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
 この世ひとりの君ならで
 ああまた誰を頼むべき。
 君死にたまふことなかれ。

 晶子ほどの根性はないが、昨日、上のような手づくりの紙袋を下げて堺の街を歩いてきた。

2 件のコメント:

  1. 長谷やんのロマンと創造性、度胸と行動力に心からの敬意を表します。

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  2.  この紙袋を足元に置いて電車に座っていると向かいの席の人々が、ミニスカートの美人の足元をチラッチラッと見るように読んでくれます。若い男女が堺について語り始めたようにも見えました。ウフフフフ
     スノウさん、私にはロマンも度胸も行動力もありません。ただ、アホなことを思いつくのは大好きです。

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