NHK朝ドラのカーネーションは、この後、父善作が根岸に対して糸子への洋裁の授業の代わりに根岸に謡を教えることとなるらしい。
ところで、いろいろなジャンルの歌にはそのジャンルにふさわしい発声方法があり、テレビドラマなどで民謡や詩吟のような声で謡曲が謡われたりすると鼻白んでしまう。小林薫の好演を期待したい。
今はいない義父は謡が得意で、まさに謡らしい発声ができていて、結婚式での高砂などは聞いていて心地よいものだった。もちろん私たちの結婚式でもそうだった。
朗々たる「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり」は、お能の知識を欠くと「なんのこっちゃ」という詞であるが、それでも何となく「おめでたい」気分になったものである。
という解説ではあまりに軽薄なので「林望が能を読む」からつまみ食いをすると・・・、
本曲には、私どもの「民族の記憶」が豊かに息づいている。
「松」は、本曲の大主題であるが、その形而上的な意味は、すなわち神の憑り代(よりしろ)にほかならない。
その松が、ここでは「夫婦松」として造形が施されている。
そして、老体は、長く持続せる生命力で、それに「あやかる」呪力であったに違いない。
こうして、幾重にもめぐらされた民俗としての祈りが、後段、若々しい生命力を備えた神体として出現するのである。
とある。という解説ではあまりに軽薄なので「林望が能を読む」からつまみ食いをすると・・・、
本曲には、私どもの「民族の記憶」が豊かに息づいている。
「松」は、本曲の大主題であるが、その形而上的な意味は、すなわち神の憑り代(よりしろ)にほかならない。
その松が、ここでは「夫婦松」として造形が施されている。
そして、老体は、長く持続せる生命力で、それに「あやかる」呪力であったに違いない。
こうして、幾重にもめぐらされた民俗としての祈りが、後段、若々しい生命力を備えた神体として出現するのである。
で、「なんとはなく」なるほど意義深いらしいと納得している。
住吉大神を巡る古代史の疑問はいったん脇に置く。
88回目のオリンピック! 楽しく嬉しく拝見させていただきました。お母様 最高!こちらまで頑張りが伝わってきます。(まだまだ元気だよ!)の、お声が聞こえそうです。唄が大好きだった明治生まれのわが母も、合唱団やオリンピックに参加したかったかも・・・?これからもお母様のお元気を楽しみに(^-^)しております。 (ミリオン)
返信削除ミリオンさんコメントありがとうございます。食事以外の時間はほとんど寝てばかりの母親ですが、その間に、ちょっとでも刺激を与えるのが家族の仕事かなと此の頃やっと気づきました。そう考えると少し気が楽になり脳天気に暮らせるようになりました。いや、もともと脳天気だから老朗介護日記が綴れているのでしょう。
返信削除先日の古本市で嫁はんが買った謡の手本に「弱法師」というのがあった。私も謡等というモノは「高砂」ぐらいしか知らなかったけれど、先年亡くなった桂吉朝さんの最後の舞台「弱法師」をNHKで見た記憶がある。亡くなる少し前、自らの最後の舞台と悟った吉朝さんの迫真の舞台だった。
返信削除落語の落ちは、かなり違っているが親子の情愛を謡ったしんみりとした噺である。
2000年に堺市の世界祭り博覧会があり、大仙公園内で能をみました。謡いは同じものですか? 住吉大社でも薪能があります。 堺大浜 公団住宅の中に能舞台があるのを知っていますか? 一度本物の舞台を見学したいです。
返信削除謡いはお能の台詞部分を節をつけて謡うものですが、深くは知りません。また大浜の公団住宅の件は全く知りません。なんと洒落たものですね。いろんな情報をコメントいただければ幸いです。toshikumaさんコメントありがとうございました。
返信削除ひげ親父さん 謡い→弱法師→菜刀息子に話は広がりますか?ここはスノウさんの解説が入らなければ終わることができませんね。
返信削除謡曲「弱法師」は昔の河内、高安に住まいする人が讒言により息子、俊徳丸を追放したが、その身を案じ施行をしているうち、四天王寺で盲目の法師となった息子俊徳丸を見つけ高安に連れ帰る、という筋で、近鉄沿線の「俊徳道」駅の由来でもあり、河内に縁のあるる物語です。これをパロデイ化したのが落語の「菜刀息子」です。と、これは、米朝さんの名著「米朝ばなし」-上方落語地図、の解説です。サゲが、「長患い」と「菜刀(ながたん)誂えて(あつらえて)」の口合い(洒落)になっているのですがわかりにくい噺、下げです。
返信削除しばらく隠居所に行って居りました。久しぶりに帰ってきました。昔々、大昔「狂言」を十数年習ったことがありました。能と狂言は「真」と「草」と言われ裏表の表現で、枝雀落語の理屈では無いけれど「緊張」と「緩和」の対比の芸能であったようです。「能」の題材をパロデイー化した「狂言」の曲も沢山あります。「能」は「怨念・亡霊」が出てきて僧侶のお経で「消えにけり・・」で終わるのが多いのですが狂言は使用人が主に悪戯して「ワッハハ・・」のおおらかな笑や「許して下さい、ゴメンナサイ」で終わるのが多いようです。世界に誇れる昔の日本の文化をもっと身近に大切にしたいものです。「高砂」の謡曲は「高砂」と「住吉」の「松」の二本別々の「松」を「相生」の松として一対として、いわば「別居結婚」でも心を通わせている事を寿いでいるようです。
返信削除十数年狂言を習われたスノウさん 本文より楽しいコメントありがとうございます。いつもながら敬服しています。
返信削除恥ずかしながら、お能は相当な基礎知識をもって臨まなければ「好さ」が判り難い気がします。楽しむというよりも勉強させられる心境になります。