少し前だが朝日新聞が、先の戦争から帰還した父親が「人が変わって」暴力的になったり腑抜けのようになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)のこと、そういう家族(子供)が「家族会を作って交流や記録等の活動している」ことを報じていた。
私自身仕事柄、フラッシュバックの酷い辛さは文字では嫌というほど読んできたが、私は広島の被爆者である先輩が「昼間に原爆の話をした夜には必ず夜にうなされる」とおっしゃり、事実、夜に断末魔のように叫ばれたことを実際に目撃してきたから、それが私の理解などをはるかに超える地獄であっただろうと不完全ながら理解している。
ただし、広島の話は言葉足らずに誤解を恐れずに言えば被害者の恐怖「だけ」であったが、戦争帰還者の内には殺されそうな恐怖と共に「殺した恐怖」「犯した恐怖」・・恐怖=拭うことのできない自責があった。
日本軍の戦争犯罪については、とりあえず昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)殿下の証言をあげておく。
三笠宮殿下は「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」と前置きして次のとおり書いている。
🔳「ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている(日本軍の)映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかったと語っていました」(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月刊)🔳
旧西ドイツの場合、学生が戦後、親世代に対して「そのとき父はどうしていたのか」と鋭く問う運動を展開し、そのことがドイツの戦後民主主義を確固としたものにしたが、その話を聞いて私は日本のその種の運動の弱さを嘆いていたのだが、ほんとうに戦争PTSDを理解しようとするほど、当事者に語らせる残酷さに躊躇する感情が高まった。
私なら親や叔父たちにほんとうに問い質せただろうか。
とすれば、次の世代、次の次の世代が、それでも残されたわずかな史料の行間を深く読み取り、その教訓を後世に残す努力をする重要性を感じるのだ。なので、反対に、史料の少ないことをよいことに、侵略はなかった、植民地解放の戦争だった、非人道的な戦はなかった、従軍慰安婦もいなかったと言うような歴史修正主義とはしっかり論争する必要性を感じるところだ。
11月3日、憲法公布の日に。
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