それはさておき、私が落葉樹を好きなのは、冬の裸木、芽吹き、新緑、紅葉(黄葉)、そして落葉というそのドラスティックなところであるが、物事には光と影があるように、落葉の後始末だけは半分ため息をつきながら楽しんで?いる。
私はこの時期は「レレレのおじさん」になるのだが、5分ほど落ち葉を掃いて振り返ると、すでに次の葉がそこに落ちているから、ある種の潔癖症的に落葉樹に対応するとメンタルヘルスによくない。
金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いてふ)ちるなり岡の夕日に 与謝野晶子 がある。「夕日の岡に」となっている本も多いが、私の持っている岩波文庫の自選の歌集は「岡の夕日に」となっている。
紅葉でいうと、近頃の奈良公園の紅葉の代表選手はナンキンハゼであった。そのナンキンハゼを「本来の奈良の姿でない」と伐採を始めているらしい。私は賛成している。美しいことは美しいが、ここはモミジ、カエデにしてもらいたい。
しかし少し離れた街路樹にはナンキンハゼが多用されている。そしてナンキンハゼは実をつける。野鳥には街路樹も公園も区別がない。きっとイタチゴッコが続くことだろうが、それでよい。 奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき の雰囲気が良い。
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