昨日8月6日はヒロシマ原爆の日だったので、「またか!」と言われようが私の原爆関係の経験話を書く(何回でも)。
もちろん、私は昭和21年度生という戦後生まれだから直接的な被爆の体験はない。
青年になっていろいろ勉強する中で原水爆禁止の大切さを学んだという相当リアリティーを欠いた「頭でっかち」だった。
だから労働組合の役員になってからも、「広島支部はどうしてもっと原水禁運動をリードしないのだろう」などと生意気な感想も持っていた。しかし・・・
1970年代中盤の頃だった。
私たちの労働組合も相応に原水禁運動に取り組み、原水協や被団協とともにニューヨークの国連本部やアメリカのテレビ局などに働きかける代表団を送りだした。それが広島支部のYさんだった。
職場では広島局の幹部だったし、労働組合では中国地協の名物議長、恰幅も押し出しも大幹部だった。
そのYさんの帰朝報告が恵比寿の会館であり、その夜Yさんと私が同じ部屋に宿泊した。
その夜中、Yさんの「うおおおお~~」という叫び声で私は跳び起きた。心臓発作ではなさそうなのでそのままにしたが、その後も「うおおおお~~」が何回も続き、結局眠ることができなかった。(文字なので「うおおおお~~」としたが、それは到底文字では伝えきれない悲鳴というか絶叫だった)
翌朝Yさんは「長谷やん、夕べワシ迷惑かけなかったか?」と言ってきた。
「実は、昼間に原爆関係の話をすると夜には必ずうなされるんじゃ。だからこれまでも原爆の話をするのは避けてきたんじゃ」ということだった。
これから相当のち私は仕事で「職務による精神障害や自殺」の労災認定業務に深くかかわることになったが、その際、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に出くわすたびにあの夜のことが思い出される。
過去に部落解放運動の中で「踏まれた痛さは踏まれた者しか判らない」と言われたことがあったが、寅さんではないが「それを言っちゃおしまい」だと私は思う。
私がいくら勉強してもYさんの夜の恐怖感は共有できないと思うが、しかし私は「そんなYさんがいた。きっと文字にできないほどの恐怖だったのだ」ということを「伝言ゲームのように継承」することができる。
実際にはYさんの恐怖の体験も怖ろしくて聞くことができなかったのだが。
昨年広島の原爆資料館の、被爆者の記憶をもとにつくられた被爆再現人形が「怖いからという理由?」で撤去されて議論を呼んだが、原爆投下から70年以上が経ち多くの被爆者も亡くなってゆくなか被爆の恐ろしさをいかに伝えていくかどんどん難しくなっている。
維新の大阪市政は「ピース大阪」の加害責任の展示を止めさせてきた。
昨日安倍首相は国連の核兵器禁止条約に一言も触れなかった。
「私も直接的な被爆体験はないし、間接的な体験も乏しいし」と思われる読者の皆さんは、せめて「毎年8月に長谷やんがこんなことをくり返し書きよんねん」ということでも広めていただければ幸いだ。
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