8月上旬のテレビには戦争を振り返る番組が少なくないが、どうも戦争の被害者としての側面に比べ、加害責任と真摯に向き合う量が少ないように思う。
庶民にとっては被害者として「二度と嫌だ」と確認することも意味のないことではないが、いみじくも安倍首相が戦争法の際に使ったパネルのように、「海外の邦人救出のために出動できない自衛隊でいいのか」的なロジックに乗せられやすい危うさが被害強調論にはある。
加害責任というと、自分の優しい父や祖父が鬼のような無差別殺戮や強姦をしたなんて信じたくもないし、事実、ほとんどの戦争経験者は口を噤んだまま彼岸に行った。
そして帝国軍部は敗戦時に膨大な証拠隠滅を行った。
(例の森友問題などを見ていると、日本の支配層には反省という言葉はなく、悪しき「伝統」が継承されていることよと嫌になる)
さて、加害責任の一つの典型として南京大虐殺に向き合ってみる。
現役時代の一時東区大手前に勤務していたことがある。
そのビルや大手前病院の前にあるのが追手門学院の小学校だった。前身は偕行社の小学校だった。偕行社は陸軍将校の同窓会である。(現在は陸上自衛隊幹部も)
その偕行社が機関紙『偕行』83年11月号で「南京事件に関する情報提供のお願い」をした。
目的はいわゆる南京大虐殺への反論のためだった。ところが・・・
「多くの敗残兵を捕らえたが”ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。城内掃討中でも、獅子山付近で百四・五十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した」(島田勝巳第二機関銃中隊長)
「大勢のなかには刺殺、斬首などの真似をした馬鹿者も居りました。入城後数日、下関(シャーカン)で毎日、捕虜が処分されているという噂を聞き、又実際にその光景を見ました。・・・一人ずつ歩かせて桟橋の端に来た時、突き落として小銃で射殺していました」(石松正敏第二野戦高射砲兵司令部副官)
・・・等々の証言が寄せられ、連載の最終回(85年3月号)に編集部執筆責任者加登川幸太郎氏は「弁解の言葉はない。・・被害者である中国の人びとが、日本軍の非行を何と告発、非難されようが、非はわれわれの側にある。これは何とも致し方がない」と述べている。
(出典:『日本の侵略と植民地支配』新日本出版社)
南京大虐殺の影に隠れているが、「シンガポール華僑粛清事件」も同様だった。
彼のリー・クアンユー氏は回顧録の中で「日本は、・・英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。・・同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」と語り、「・・・これらの過去を隣人に対して認めないならば、人々はこうした恐怖が繰り返されることもありえると怖れるしかない」と歴代自民党政府を批判した。
明日は8.15、少し冷静に日本軍の加害責任に思いを巡らせたい。
そうだとすると、個人的な先祖崇拝だけでよいのかという疑問も湧いてくる。
ええカッコではないが、全てのアジアの戦争被害者、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキの犠牲者等々に思いを寄せてお盆の迎え火を焚いてみた。
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