八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま) 本体は宮中に鎮座
八咫鏡(やたのかがみ) 本体は伊勢・皇大神宮(内宮)に鎮座
草薙剣(くさなぎのつるぎ) 本体は名古屋・熱田神宮に鎮座 ・・・している。
古来「皇位」の唯一無二の「保証」とされているが、人の命以上に重い神器などあろうはずがない。
しかも、昭和15年(皇紀2600年)に日本から神道を満州国国教とさせられた折、皇帝溥儀はこう言った。
「裕仁天皇は・・三種の神器を出して私に説明した。私は心の中で思った。北京の瑠璃廠(骨董屋街)にはこんなものはいくらでもあると聞いている。太監が紫禁城から盗み出した・・どれ一つをとっても、これよりは値打ちがある」(著書『わが人生』)
客観的には溥儀の言うとおりだろう。
さて、昭和20年4月、東京大空襲だけでなく全国の地方都市も順次焦土と化していった。
「早期講和」が必要なことは誰の目にも明かなことだったが、指導者の会議は正に踊るがごときだった。
この時点で「聖断」が下されていたならばと「死んだ子の歳を数え」れば、6月の沖縄の島民の4分の1を超える「玉砕」も、ヒロシマ、ナガサキの悲劇もなかった。
満州に置き去りにされた悲劇もシベリア抑留だって回避できた可能性は大きい。
ようやく8月9日の深夜(正確には10日午前2時過ぎ)、最高戦争指導会議において、昭和天皇は「私は外務大臣の案(ポツダム宣言受諾)に賛成する」と「聖断」を下した。
『昭和天皇独白録』の有名な箇所であるが、・・・
当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護することができない。
第二に、国体護持の事で木戸も仝意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。
と、その理由を述べている。
愛新覚羅溥儀が「骨董屋街にいくらもある」と感じた三種の神器・・・、
8月15日玉音放送はこのように三種の神器を守るために決断されたものだった。
庶民レベルでいえば戦争に勝ちも負けもない。
15日前後のテレビは、敗戦から立ち上がった立派な日本民族を讃えるだろうが、その戦後復興も朝鮮戦争特需、朝鮮民族の不幸とバーターで得られたものであることを忘れてはならない。
リアルに歴史を見る者だけが真の愛国者だと私は言いたい。
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