2016年11月17日木曜日

中世と出会った水間寺

   OB会の遠足で泉州・貝塚の水間寺に行き、思いもよらなかった「生きている中世」に出会って感激した。

 さて、テレビの「新日本風土記」などでとりあげられるテーマの一つに「宮座」がある。
 田舎の古社の運営を専門の神職ではなく氏子つまりは村人が力を合わせ当番などによって運営する、その組織のことである。その由来は古代末期まで遡ると言われたりしているが、役職の名称などから中世の匂いが濃いように私は思っている。
 これの寺院版、つまり「寺座」(座中)が水間寺に残っていた。

 立教大学蔵持教授(中世史)によると、寺座は鎌倉期等はそれが普通だったものが徳川幕府の宗教政策で壊滅したのだが、それが水間寺だけに残ったという。強固な観音信仰、人的・財政的基盤がしっかりしていた全く特異なケースだという。
 現在は、137軒?の家の子ども(男子?)が16歳?で座入りし、56歳?以上になると分担してお寺に勤める。12人衆という年寄役?が執行部?になる。(立ち話のように聞いたので不正確かもしれない)

 水間寺では、そういう地元の人々が僧として祈祷などもし、お寺を実際に営んでいるのである。
 この話を我がOB会会員でもあるガイドのTさんから伺った後、該当の寺僧に私が話しかけていたところ、その僧がTさんに「Tさん?」とおっしゃて、実はTさんの同級生であることがわかった。
 さらには、誰も、彼も、Tさんの同級生がたくさん寺僧になっていた。
 私としてはこんな歴史学・民俗学・宗教学上の「生きた化石」のような貴重な制度を肌で知って感激この上なかった。

 ここからは余談になるが、戦後の時期、こういうものが水間寺にあったことは今東光や司馬遼太郎の本で私は知っていたが、現在なお残っていたとは思ってもいなかった。
 知っていたのは今東光和尚による。いわば独立独歩の水間寺に天台宗本山側が「座中征伐」に送り込んだのが今東光だった。
 座中の寺僧は、今東光に言わせると「水間谷に巣くう白蟻みたいな奴」「ケチ臭い悪党ども」で、最後には地元派と今東光派の暴力事件まで起こった。
 その折、今東光は「悪名」で有名な八尾の朝吉親分を呼んで実力行使を計画したが、そのとき朝吉親分は「向こうが7人として、倍の14人はいりまっしゃろな」「相手は和泉だっせ」と言ったと司馬遼太郎の本にあった気がする。

 その話のメーンテーマは河内と和泉の人間はどちらがガラが悪いかというもので、答は格段に和泉だという結論の参考文章となっている。
 毎年のだんじり祭り等での救急車の出動回数からもおおむね妥当な評価であろう。

 そんな事件もあったが、どっこい水間寺の座中は生き残り、かつ寺は繁栄している。
 寺の繁栄については、西鶴の「日本永代蔵」(利生の銭〈初午は乗って来るし合〉)を参照されたい。年利100%の高利貸しとしても才覚があったようだ。


 17日夕 追記

       寺座の残る水間寺にて
       冬ぬくし村のならいと寺僧かな

3 件のコメント:

  1.  私は若い頃堺市に住んでいた。そのため特別に勉強したわけではないが中世の自治都市については常に興味を抱いていた。中世の自治都市としては堺が有名だが、実は全国にはたくさんある。その中にはお寺と商人による町も少なくない。
     網野善彦著「無縁・公界・楽」なども参照すると、中世のそういった原理が水間に脈々と引き継がれたのではないかと想像(夢想)したりする。
     水間寺の寺座(座中)の勉強など機会があれば学びたいと思う。先学の師を知っておられたら教えていただきたい。

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  2. 私も驚きというか、感動しました。「寺座」とか難しい話はわかりませんが、生まれた地域との関わりを捨ててしまった身には何とも複雑な思いがありますが、、、でも昨日は文句なく楽しい1日でした。

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  3.  堺では会合衆(えごうしゅう)でしたが水間寺は「12人衆」という年寄衆らしく、それも概ね年齢順の平等であったようです。中世も面白そうです。

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