2015年8月18日火曜日

木製飛行機

下の白く小さいのが桜花
(ネットから)
  終戦記念日とその前の数日は第二次世界大戦関連のテレビ番組が多かったが、たまたま点けた番組で海軍の「特攻兵器桜花(おうか)」のことが語られていた。
 母機(一式陸攻)に吊るされて運ばれ、その後切り離され、ロケットエンジンで敵艦に体当たりする有人特攻機で、「神風」や人間魚雷「回天」は知っていたが、こんな特攻もあったのだと初めて知った。(戦後70年というけれど、語られていなかった話も多いものだ)
 そして、その放送の中で、羽の部分が木製であったことに触れられていたので私の心は少々ざわついた。
 というのも、以前の記事に書いたが、私の亡父は戦時中松下飛行機(株)に勤めていて、そこで造っていたのが木製爆撃機「明星」だったからである。
 もしかして「明星も特攻機?」と連想してしまったからである。
 ただ、調べてみると当時は世界中で木製や布製の爆撃機は珍しくなかったようで、少しホッとした。
 後に亡母に父の会社のことを聞いてみたが何も知らず、ただ「あの辺(盾津飛行場:現東大阪市)にはベニヤ板の工場がいっぱいあった」と語っただけだった。
 さらに後に調べてみると、高度成長のシンボルのようであった家具調のテレビや家具調のステレオの「家具調部分」は、松下飛行機(株)のこの木製飛行機の技術の成果であったらしい。
 これも以前に書いたことだが、敗戦時に亡父は「何日もかけて徹底して軍関係の証拠」を焼却したと語っていた。
 当時は、そういう「証拠隠滅」が軍や軍需工場で天文学的な規模で実行されたのだろう。
 そのことに考えが及ばなければ、「植民地支配の証拠がない」「やむを得ず戦争をした」「もう謝った」というような甘い言葉に乗せられるのではないだろうか。
 「証拠が残っていない」は「事実がなかった」ことではない。
 事実、さらに後日、亡父の人生を振り返りたくて国立国会図書館へ「松下飛行機(株)のことを知りたい」と相談に行ったら、「軍需工場の記録は全くと言っていいほど残っていない」との回答であった。

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