途中で転居はしたが広い意味でこのニュータウンに居を構えてから30年が経つ。
その頃(30年前)は、夏の退勤途上、駅前の街灯の下にクワガタやカブトが時々舞っていた。
コクワガタなどはいっぱい地面に落ちていてゴミのようなものだった。
そういう話がいつの間にか思い出話になってしまった。
開発が進んで緑がなくなったわけではない。けっこう緑地も残されている。
子供たちが捕りつくしたわけでもない。そんな頼もしい子供の方がカブトより桁違いに少ない。
街中が明るくなりすぎた? 害虫駆除の徹底? 枯木の始末?? 私には判っていないが、枯木が処理されて‟きれいな街”になったのが一番臭いと思っている。
さて、クワガタやカブトは見なくなったが、キリギリスは盛んに鳴いている。
孫に捕ってやろうと出かけたが全く捕れずに帰ってきた。
小さい頃はあんなに捕れたのに・・と思ったが、あの頃は1日中遊んでいたのだから、今から思えばそれほど捕れていたわけでもない。遠い楽しい想い出は実際よりもたくさん捕れていたように記憶にしまわれている。
そんな話を妻にすると、「キリギリス? そんなんいてる?」と聞き返したので驚いた。
駅までの道中キリギリスだらけでないか。家にいても聞こえるではないか。
妻は「ザーザーと虫が鳴いてるのは知ってるけど」と言う。ザーザー?? はっきりと『キリギリース チョン』と鳴いているのに。興味を向けないとこういうことなのだろう。
近所の知人が「コウモリなんか見たことない」と言っていたのと同じで、見えてはいるが『つまらない蛾が飛んでいる』と信じ込んでいたに違いない。
金子みすずさんの詩ではないけれど、「見えぬものでもあるんだよ」というか、見えていたり聞こえていても見えない聞こえないものも多い。
好きでもない昆虫なんかに反応しないというか、同じように、人間には辛い出来事を辛いと感じないように入力を遮断する深層心理があるようだ。
ただそれを繰り返すと、社会の歪みさえも見えていても見えなくなる。
戦争の前触れは怖いことだ。だからそういう事実を見たくない。まさかほんとうに戦争なんて起こらないだろうと信じたい。信じたいので信じ込む。
私も3.11の後、「メルトダウンはしていない」「ただの水素爆発だ」との発表を疑いながらも‟そう信じたい”ので半ば信じ込もうとしたことがある。
悲しいけれど、これが安倍内閣や維新を潜在的に支える無党派層を作っている。
とすれば、大切なことは、そこに共鳴してもらえる言葉である。
正しい理屈が即多数になるなら話は単純だ。
私たちは、キリギリスやコウモリを聞いたことも見たこともない方々に解ってもらえるダンドリに知恵を出す必要があるように思っている。
昨日のなかにし礼さん風に言えば、若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければならない。
朝日新聞は、右翼運動の日本会議が主導して19県議会で改憲推進の決議がなされたと報じている。
そんな中、護憲平和を望む人々が、十年一日のごとき言葉と行動であっていいはずがない。
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