8月6日ということで一番思い出すことは、先輩Yさんのことになる。
Yさんは労働組合の先輩で、中国ブロックのリーダーだったし、仕事上の職責もその地の幹部に近かった。
恰幅もよく押し出しも効く、一言でいえば親分肌で肯定的な気分を込めて仲間からボスと呼ばれていた。
当然のように皆に押されて、その年には原水協の国連・ニューヨーク要請団に参加され、米国のテレビでも被爆体験を話されるなど活躍をされた。
その親分が、「実はな長谷川君、わしゃあ、ピカドンの話をするのは好かんのじゃ」とおっしゃったときにはその意味が解らなかったが、その夜、ホテルの二人部屋で一緒になったとき、私は彼の悲鳴で飛び起きた。
それは、文字では到底伝えきれない「ウオー ウオー」という悲鳴というか叫び声で、直ぐには心臓病かと思ったが、「今わし大声を出さんかった?」と尋ねられ、また何回か繰り返されたので、うなされていることが理解できるようになった。
翌朝には、「夕べ大声を出したん違うかな」「迷惑かけたん違うかな」と謝られ、「昼間に原爆の話をした日の夜は必ずうなされるんじゃ」と辛そうに語られた。
「ああ、また今晩もうなされる」という恐怖が「話すのは好かん」意味だったのだ。
その後私は、仕事の上でPTSDなど『重度ストレス反応』を取り扱ったりすることとなったが、診断ガイドラインにある『フラッシュバック』や『夢の中で反復して再体験するエピソード』を読む度にあの夜のことを思い出した。
戦後生まれの私は直接的な体験を語ることはできないけれど、Y先輩は命がけで地獄の様子を私に教えてくれたように思う。
だから、この話を毎年8月6日に書くのが与えられた宿題だと考えている。
あの日
この子の目の前で
起きたことを
知っていただきたいのです
あなたに
そして
日本の子どもたちに
全世界の人びとに
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