2013年5月3日金曜日

行基さんの仏教

  連休の谷間(といってサンデー毎日の私にはほとんど無関係だが)に、生駒山の麓を散歩した。
 鶯の囀りが時雨のようだった。

  堺の小学校低学年の頃、確か「歩く遠足」で家原寺に行った記憶がある。つまり、我が家や学校から「家原の文殊さん」はそれほど遠くはなかった。家原寺は行基さんの生家である。
  その後、結婚してから長期間奈良に住むようになったが、近鉄奈良駅前の行基像は、バードウォッチング等の待ち合わせ場所として馴染んでいた。
  行基さんが亡くなったのは奈良の菅原寺(喜光寺)であるが、ここの管主様から母が長寿を祝う色紙を戴いたご縁がある。
  そして、行基さんの墓のある竹林寺が荒れ果てていたのを再興した中心人物の故Nさんが妻の遠縁にあたるので、お正月の読経に出席させていただいたこともある。

竹林寺にある行基の墓
 さらに、行基さんが火葬された地と伝えられている、竹林寺近くの往生院は中世から続く生駒谷11か村の郷墓で、妻の家の古い古い墓石のいくつもがそこにある。

  ということで、行基さんには何となく親しい感情がある。
 
 一般の書物でも・・・、その時代の国家鎮護の仏教界(イコール国家)から禁を犯してまで飛び出して民衆に布教した。
 集団で、ため池や港や橋や布施屋等の建設という社会事業を行った。
 ついには大仏建立の勧進僧に抜擢され史上初の大僧正にまでなった。と、悪い噂は一つもない。(正確には日本霊異記には肯定的でない記述もある。)
  しかし、私は勉強不足で、というよりも全く勉強しないものだから、何でこんなドラマチックな話が実現したのかということが判らなかった。つまり、行基さんの思想がどういうものか判らなかった。
  で、好き勝手に夢想した次第。

  行基さんは若い頃生駒山で修業したと言われている。とすると、同時代に役行者も周辺で修業していたことになる。(竹林寺や往生院を少し上ると役行者が鬼を捕まえた地・鬼取の集落がある。)
 役行者から現代の修験道につながる思想のルーツが道教にあるのは疑いないところでもあるし、だから、この時期の「いわゆる仏教」の中には、道教に限らず大陸の諸子百家にルーツを持つ種々の思想が混じっていたのだろう。そしてそれらは、公式のルート以外にも多様なルートで入ってきていたと考える方が自然だろう。
  そも、行基さんの家系のルーツは百済王の子孫と伝えられている西文氏(かわちのふみ)系の高志氏。母方も渡来系の蜂田薬師(はちだのくすし)。
  両方とも土師氏周辺ということもあるから、文筆、外交、土木、製陶、医学、薬学等に関わる最新の技術に触れられる立場にいたことになる。
往生院にある行基の供養五輪塔
  仏教が自然科学系の理論や技術と不可分であった時代である。

  ということから私の意識は、春秋戦国時代の墨子(墨家)に興味が飛んだ。
  白川静氏の言葉を借りれば・・・、墨家は下層にある工人のギルド的集団を母体にしていた。築城や兵器製造の高い技術を持っていた。墨子はつねに賤人の立場で発言していた。墨者のもつ驚くべき行動力は、その強固な結社性と、信仰的な団体に近い奉仕的な精神にあった。ときにはほとんど狂に近いものであった。というのである。
 そう、行基さんの仏教は、・・・・・行基さんの思想は墨家のそれではなかったか?(役行者が仏教の奥に道教を見つけたように。)
 くどいようだが、行基さんが学んだ仏教経典類の中に、実は墨子の思想もあったのではなかろうか?
  私には社会事業や国土建設にまい進する「行基集団」と墨家のそれとがどうも重なって見えるのだが。
 伎楽なども、遥か昔に中国では消滅したものが我が国に伝わって今も残っているということもある。
 だったら墨家の思想も・・・・・。

  「それで、その説はどんな先生のお説なの」と妻が聞いた。
  「いや、今私が思いついた」と答えたら、「紀元前のことと奈良時代を結び付けるなんて、あほかい な」と一笑に付された。
 でもねえ! 「全ての真理は始は少数派だった」とも言いますから。
 この着想、荒唐無稽ですか?



 あとがき(8:50補足)
 墨子については主に白川静著「孔子伝」から孫引きした。
つい先日の安倍首相
  そこには「墨子は・・・兼愛非攻の実践を追及してやまなかった」とある。
 もとより、片言隻句を引いて断定するのは避けなければならないが、子が現代を見、この写真を見たならどう嘆いたであろうか。
 今日は憲法記念日である。
 96条改正論議は、彼に白紙委任状と実印を渡すようなものではないだろうか。

2 件のコメント:

  1. 菜の花美人2013年5月3日 14:31

     新緑が目に目映い、山里にひっそりと、眠っておられる、行基菩薩さまのお墓参りが出来ました。
     晴れやかな、五月晴れ中のウオーキング 気分爽快”

    返信削除
  2.  菜の花美人さん、コメントありがとうございます。
     すぐ下まで住宅地が広がっていましたが、一歩上ると行基さんや忍性さんの息遣いが聞こえるかのような山里でした。
     それもそのはず、そのあたりは古墳時代前期からの古墳群でもあったのですね。
     いいところです。

    返信削除