2024年3月30日土曜日

一言観音

   24日に、日本霊異記を牽いて「神(一言主神)が仏(僧)(役小角)に呪縛された」話を書いたが、これはどちらかというと例外で、そもそもこの国では神仏習合こそがスタンダード(普通)であったと考える。

 神仏習合では奈良の「興福寺と春日大社」も有名で、興福寺は明治の廃仏毀釈の大嵐で大きなダメージを受けたものの、現代でも興福寺の僧が春日大社に詣でてお経を読む行事がある。
 その興福寺の有名な南円堂のすぐ隣に、「一言観世音菩薩」のお堂があるのを知ってはいたが、この際、ちょっと待てよ!と考えた。

 「たった一つでよいというほどの大事な願いなら叶えよう」という趣旨だろうから、これは一言主神のパクリとは言わないが、仏教がそれを包摂したものではないだろうか。
 仏教ではあるが、大いに民間信仰の思想、神さんの思想をもって観音菩薩に肩書みたいに名付けられたのではないだろうか。
 あるいは、もしかしたら神仏習合が当たり前の頃、元々は「一言主の神」を祀っていたのかもしれないとは私の勝手な想像である。

 それはさておき、現代、イスラエルの現職の大臣何某は、ユダヤ教の旧約聖書を根拠にパレスチナ人を追放すべきだと主張し虐殺が行なわれている。
 先日はモスクワでIS(イスラム国)がキリスト教徒の多い場所で大規模なテロを実行した。
 バルカン半島では今でもキリスト教セルビア正教会信徒とカトリック信徒とイスラム教信徒による領土紛争を抱えている。
 インドではヒンディー至上主義の、アイルランドではカトリックとプロテスタントの・・、
 ・・・・などということなどを見渡すと、クリスマスを祝って、お寺で除夜の鐘をついて、神社に初詣に行く多くの日本人の宗教観はしばしばマイナスイメージで語られたりするが、いやいや、この「神仏習合?」の知恵は決して侮れないなどと私は思い直している。

 そういう観点では、現代、神仏習合ではないが、仏教、キリスト教、神道、天理教、他の新宗教の信徒らによる日本宗教者平和協議会(宗平協)が平和の問題で連帯し、日本共産党とも協力・共同の関係にあるのは素晴らしいことだと思う。

 友人がご住職である法華系のお寺は昔から「目(め)の神さん」と呼ばれていたらしいが、これについても何も違和感を覚える必要もないだろう。

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