2024年3月15日金曜日

高松塚古墳から

   2月に文化財保存全国協議会の講座で森岡秀人氏の講義を受けた。
 その日のテーマは関係なかったが、森岡氏といえば高松塚古墳発掘調査で有名な方である。

 また高松塚古墳発掘調査の責任者故網干善教先生は、私がここへ転居する前は近くにお住まいだったが、当時の私は古代史にそれほど深い関心がなく、地域の勉強会にも参加していなかった。今思うと惜しいことだった。

 高松塚古墳の被葬者は今も特定されていないが、私などは壁画の東壁南側男子群像が、四隅に緑色の房を垂らした蓋を持っていることから、一位の人物である石上麻呂が有力だと考えていたが、「一位といえども藤原京の真南に造営などできないから皇族(天皇と皇子等)である」との反論に阻まれていた。

 さて3月12日、小笠原好彦先生の講座に参加して、① 中国では漢代以降都市には墓を造らせなかったこと、② 中国に倣った『養老喪葬令』(残っていないがきっと大宝律令でも)、「皇都及び(幹線)道路の側近には墓の築造を禁じた」ことを学び、やはり高松塚古墳は、皇都ではないものの特別な場所だと考え、忍壁皇子説に変わりつつある。

 さて、有名な終末期古墳というと、キトラ古墳、マルコ山古墳、石のカラト古墳、高松塚古墳があり、石槨の工法や出土した土器片から制作時期がほゞ特定されつつある。
 そして私がこのブログで度々触れてきた石のカラト古墳は、私の住居のそう遠くない散歩道にある。
 
 そして、以前に講義を受けた白石太一郎先生は、被葬者は、年代からいって藤原不比等が一番有力だが、公卿補任(くぎょうぶにん)という書物に「不比等は『葬佐保山椎岡』と書かれていることに合致せず、この地が広義の佐保山と書いてある書物がないかどうか探している」と述べられていた。

 このことについて、小笠原先生は、12日の講座で明快に解答を出されて、私は大いに納得したのだが、そのことは先生が著書等で正式に発表されてから書くこととする。
 私は私で、方角等を重視した陰陽道(道教)についてもう少し勉強することとする。
 (写真は石のカラト古墳)

2 件のコメント:

  1. 本日の記事の私なりの重要事項は2点。1は高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子だと考えるに至ったこと。2は石のカラト古墳の被葬者名とその理由が私なりにわかったこと。

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  2. 本日、小笠原先生から先の私のハガキに対するお返しのハガキを頂いた。先生が奈良文化財研究所の晩年に発掘を担当された石のカラト古墳の発掘時の美しいスケッチまで添えられていた。あと1か月ほどで論文を書き上げるとあった。

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