2022年1月5日水曜日

古代史と出会う

河内名所図会
   このブログで私が度々病気のことを書いたので、昨年の歳末に古い友人が誉田八幡宮のお守りを送ってきてくれた。いや「爺ばか日誌」を読んで二人の孫用に送ってくれたらしい。ありがたい。

 誉田八幡宮の主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)で応神天皇(誉田天皇ーほむだのすめらみこと)である。皇后の仲津姫は誉田真若王(ほんだまわかおう)の娘であるから入り婿であろう。

 そういえば現職時代、この地出身の先輩に誉田さんとおっしゃる方がおられて、読み方は「ほんださん」だった。

 誉田八幡宮は伝応神天皇陵である誉田御廟山古墳に接しており、明治維新以前は古墳の後円部頂上の六角堂(三昧堂)まで参道が通じていた(河内名所図会)。さらに、他の史料からも少なくとも11世紀には誉田別尊(ほんだわけのみこと)・応神天皇陵、そして八幡神という認識は広まっていたと白石太一郎氏は書かれている。

 さて、日本書紀が第14代という仲哀天皇は熊襲征伐のため筑紫の橿日宮にいるとき「神の託宣を信じなかった」ので仲哀9年2月に急死したが、神功皇后は前年の9月に神の託宣で妊娠を告げられ、仲哀9年12月に誉田別を出産した。妊娠期間は1年2か月余り、仲哀死後10か月以上経っている。

   そんな誉田別を押し立てて神功と武内宿禰が東征?してきたので、仲哀の子、麛坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)は当然に抵抗したが、神功側の計略に引っかかり最後は殺された。

 昨日のブログで私は初詣に奈良市押熊町に行ったことを書いたが、押熊町は忍熊王の地であった。万世一系的にいえば正統な麛坂王と忍熊王はこのように謀反人、反乱者となって殺されたが、押熊のムラの静かな林の中に二人はひっそりと祀られていた。立派な門松さえ立てられていたから、故郷というか地元の人たちはありがたいものであろう。

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