2014年10月8日水曜日

老人は図書館

  「アフリカでは、老人が一人亡くなると図書館が一つ消えると言う。地域によって言い回しは違うかも知れないが、この言葉が意味するところは、文化にかかわらず真実である」とは、2002年の国連アナン事務総長の演説の一部で、全く同感である。

 先日、近所で「憲法9条の会」発足の集いがあったが、戦後世代が「個別的自衛権と集団的自衛権は?」とか「9条を守るだけで良いのか?」というような理屈を言いあっている中で、80歳以上の先輩が、満州の新京から女子供だけで引き揚げてきた経験や、樺太で8月15日以後も機銃掃射を受け、これも九死に一生を得て引き揚げてきた経験は、文句なしに「二度と戦争をしてはならない」ということを説得力を持って教えてくれた。
 前回のブログで「親の半生を聴いておこう」と書いたが、親だけでなしに戦前・戦中を知っている先輩から『生の言葉』を聴いておくことの大切さを私は今ひしひしと感じている。
 ただ、辛かった被害の話の割に加害の話が少ないのは、一般に男性の方が早死しているからと思われ、となれば、それは喫緊の課題と言えよう。
 そうでないと先日テレビで、櫻井よしこ氏が慰安婦問題に触れ、「日本人が、日本の兵隊がそんな酷いことをしたはずがない」というような、非科学的ではあるが日本人には耳あたりのよい言葉を繰り返していたが、そういう状況を的確に克服し難い気もする。
 事実を冷静に紡げば真実は明らかになる。
 戦前や戦中に関わる先輩諸氏の声を聴き及んだ方々がコメントに書いていただければ幸いだ。

 さて、確か「ああ野麦峠」の著者の言葉の中に、「予想に反して元女工たちの話は明るいものだった」という件(くだり)があったように記憶している。
 体が弱く「ああ飛騨が見える」と言った方々は記録採取の時点で多くは亡くなっていたのだ。
 (記録採取に応じてくださった元女工たちは健康で生き抜いてこられた方々だった。)
 同じように前日の会合で、父親たちの戦争体験の報告をしあったが、総じて「楽しい戦地の想い出」が多いことに目から鱗の驚きを感じたが、反面ものすごく理解もできた。人情というものは一筋縄ではいかないものだ。
 とすれば、私たちは死者の言葉や口を閉ざした父親たちの言葉をどう語り継ぐかについて話し合わなくてはならない。
 ただ単に先輩諸氏の話を聴けば戦前の不条理が浮かびあがるほど世の中は単純ではない。
 それだけに?、身近な戦前の記録を採取するのは予想外に楽しいことだとも思っている。

2 件のコメント:

  1.  アナン事務総長の「老人一人のが亡くなると図書館一つなくなる」との言葉、老人が大切にされていることがよくわかります。それに対し、日本人はどうかと考えてみましたが類する言葉を思い出せません。
    逆にどういう訳か「姥捨て山」と言う物語を思い出しました、口べらしのため自ら命を絶つ、そんな悲しい話を思い出した自分がなんか変かなと思いますが、老人を敬うような言葉が日本にあったかな?あるのかないのか、未だに分かりません。
     現在安倍政権のやろうとしていることは、大企業や大金持ちに対する過剰なサービスをするために、国民(とりわけ老人)に対する苛めとも思える、年金の切り下げ、自己責任との名のもと在宅医療の押し付け、老々介護の押し付け、各種保険料の値上げ等々、絞れるものは絞れるだけ絞る、そんな理不尽な政策を強いていて、毎日テレビや新聞を見るたびに嫌と言うほど見せ付けられています。
     いつまでも、したい放題にされてたまるか!今できることを精一杯して頑張ろうと考えている。

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  2.  深沢七郎の『楢山節考』が発表されたのが昭和31年で、昭和33年に木下恵介が映画化し、昭和35年と39年にテレビドラマ化、後に昭和58年にも今村昌平が映画化した。このうちの昭和35年のテレビドラマだろうと思うのだが、母親や近所の方々が食い入るように見ていたことを思い出します。
     私自身は、あまりに陰鬱で悲しく怖ろしいドラマに入り込めず、・・と言いながら結構見ました。
     また、どの映画かテレビドラマかわかりませんが、テーマ曲に歌人・北見志保子の詩に平井康三郎が昭和10年に作曲した『平城山』が使われていて、この歌も恋の歌というよりも姥捨て伝説の歌として私の心にインプットされました。
     我が家のさほど遠くないところにJR平城山駅ができ、この駅ではBGMに『平城山』が流れていますが、私はやはり姥捨ての曲と感じてしまいます。
     chinunoumiさんのコメントを読んで、そんなことを思いました。

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