先日受講したシンポジウム「おしよせる古墳時代の渡来文化」は午後1時から5時近くまでみっちりしたもので聴きごたえがあったが、その話はいずれまた・・・・。
余談として面白かったのは、考古学をずーっとされてきた公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所の田中清美講師が「私は出土品をもって歴史を語るという一貫した立場で研究をしてきたが、今年度末で定年退職というこの歳になって、記紀のような文献の細部にも歴史の事実がリアルに表現されているように感じるようになった。ご参加の皆さんも、考古学と文献史学を併せて学んでもらいたい。」と述懐されたことだった。
結論部分だけを言えば従来から多くの先生方によって述べられていることで珍しいことではないが、100%渦中の専門家(考古学者)から聞く言葉の意味は重かった。
さて、そういう意味では、異分野ともいえそうな角度から古代史を論じている本の中で、ちょっと面白い論があった。
複雑系脳科学の中田力氏の「日本古代史を科学する」で、これは古墳時代の前の弥生時代誕生のことである。
父系の性染色体の変異(Yハプロタイプ)を追跡すると、AからRのグループに分類され、アジアには先ずCグループの人間が広まり、それを追いやるようにOグループの人間が広まった。
ところが、日本は他国と異なりOグループが絶対多数を占めていない。
Cグループを主体とするモンゴルよりもさらに特殊で、C以外にDも有意の数が存在している。これは日本とチベットだけである。
結論的には、初期の縄文人がD、後期の縄文人がC、そしてOが弥生人という説が多い。
そして、このOのサブグループを見ると、日本と韓国のOの多数を占めるO2bは中国本土にはほとんどいない。
同じような解析が稲でもされていて、RM1-bという遺伝子を追跡すると、湖南省北西部で誕生し、長江河口「上海」付近のデルタ地帯に広まった稲が九州から本州南部に来たことが解っている。
なお、この遺伝子は韓半島では見つからない。
このことから、ずばり、「上海」地方から温帯ジャポニカの稲を持って、韓半島を経由せず、直接九州に到達した弥生人によってこの国の弥生時代は幕を開けた。
そして、当時、紀元前473年に「上海」付近の国家が滅亡している事実がある。
姫(き)姓の呉(三国志の孫権の呉ではない)である。
呉王夫差・越王勾践による臥薪嘗胆や絶世の美女西施の故事の呉であり、その滅亡時に呉の王族貴族たちが逃亡できた道は海路しかなかった。
・・・・・・・という説である。
ほんとかどうかはわからないが、楽しい説である。
陳舜臣の十八史略の該当部分を読み返してみたが、・・・・夢は広がる。
「気に入らないコメントを削除したいので100件削除したのか」というお尋ねがあったのでお答えします。
返信削除何回か英語のコメントが一時的にあったのを気付かれた方もあったと思いますが、近頃外国から不愉快なコメントが送られてきます。
通常は「スパムコメント」として処理されるのですが、たまに正常なコメントに紛れ込むことがあります。
私は原則として100件分のコメントを一覧表示されるようにしていたのですが、先日、1ページ分以上の英語のスパムコメントが正常扱いされていました。それをスパムコメントの表示だと一瞬誤解をして、その全数、つまり直近の100件を削除してしまいました。
非常に有意義なコメントが多々含まれており残念です。
コメントを戴いた皆様には重ねてお詫び申し上げます。
ということで、100%皆様のコメントに理由があって削除してしまったものではありませんので、お許しください。
さて、このブログの本文では、中国の春秋時代、孔子の時代に滅亡した非漢民族の王族や貴族が日本列島に逃げてきて弥生文化を作ったという説がある。それは後の「漢委奴国」という説であると書きました。
これって、非常に楽しい説ではないですか。
てなことで、引き続きコメントをよろしくお願い申し上げます。