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相当以前から報道されていたとおりの日程でもあり、「歯止め」が取り入れられたかのようなポーズのために時間を使っていただけだろう。
朝日夕刊の「素粒子」は「理性も良心もかなぐり捨てて、自衛隊発足60年の日からの新たな戦前。」と書いたがそのとおりだと思う。
冷静に近代史を振り返ってみても「国民の生命と国益のため」という以外の理屈で戦争を始めた国があっただろうか。あえて言えば、すべての戦争は「自衛のため」という名目で始まるのである。
確かに、近頃の北朝鮮や中国の立ち居振る舞いには腹の立つことも多い。しかし、それを戦争に拡大しないことこそが外交であり政治なのだろう。
「抑止力のためにはパワーが必要だ」という主張があるが、ここも冷静に考えると「抑止力のための抑止力」というパワーは論理的に言って誰も恐れないのではないか。
かつてのアメリカやロシアのように、時々没論理的に‟キレる”から恐れるのである。
だから、今後我が国は、理性と良心で外交を強めるか、時々没論理的にキレるようなロシアンルーレットの道を歩むしかない。「平和のための集団的自衛権」なんて寝言を信じる人がいるだろうか。
というような危険極まりない内容を、憲法の法体系も議会制民主主義の根本も蹂躙しての今回の結果である。
つまり、内容が平和憲法に反することを、民主主義の諸原則を踏みにじって決定したことは重大だ。
若い頃先輩から法律の読み方を教わった。いわく「百姓読みはあかん」と(農民=百姓=無知というような誤った蔑視がある言葉だが昔はそう言っていた)。つまり、憲法やそれぞれの立法趣旨に基づいて読むべきだと。
それからすると、集団的自衛権の議論は恥ずべき百姓読みの積み重ねである。いや、正確にはあえて百姓読みをして「何が悪い」と居直るという態度で、こういう論法はエセ同和や右翼のごろつきが横車をねじ込んでくるときの常套手段である。
昨日私は「夏越しの祓え」を肯定的に書いたが、この歴史的事実は心の中の『石に刻んで』忘れてはならない。(「石に刻んで」は大阪公明党が都構想で橋下の悪罵に対して言ったフレーズである。)
ただ、ほんとうの派兵までには多くの手続きが国会で審議されることになる。
反対の運動はこれで終わりでないし挫折もしていない。
民主主義を取り戻す運動の再出発点だとは大江健三郎さんの言。
先日、小島慶子さんのツイッターに元国連難民高等弁務官緒方貞子さんの言葉を引いた呟きが載っていた。
「世界から戦争がなくなることは現実的にはないかもしれないが、それでも戦争がなくなることを信じて全力を尽くすことが世界を変える唯一の方法だ。「平和なんて現実的でない」と言って見せることがどれほど臆病か!」
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