2011年9月15日木曜日

薬師寺おそるべし

 奈良の御寺(みてら)の魅力というと、時の移ろいが醸しだした「侘び」や、それ以上にまるで朽ちる寸前であるかのような「寂び」に見る、他所ではなかなか味わい難い美しさというのが多数意見だろうし私にも異存はない。
 しかし、歴史の検証にとってこの感傷は往々にして無意味どころか邪魔であり、実際、ロマンといわれる感情や多くの講談話は数々の歴史を見る眼を曇らせている。・・まあ、私だけかも知れないが・・・・。
 例えば、飛鳥京、藤原京、平城京は必死に大陸に追いつこうとしていた大都市(当時の近代都市)だったので昔から旧都であったり宮趾であったわけではないし、それ故に、都に配された事実上国立の御寺は、心静かに勉学したり国家の安寧を祈念していたというよりは、宗教と技術が不可分であったその時代にあっては、つまり祈祷や呪詛(じゅそ)がある種の暴力として現存していた下では、一面では軍事基地的な暴力装置あるいは最新兵器そのものではなかったかと考えさせられる。
 私が、そういう「目から鱗」のヒントを得たのは、小笠原好彦先生の「本薬師寺の造営と新羅の感恩寺」という論文だった。
 誤解を恐れず荒っぽく言えば、
この御方はご存知である
 薬師寺の伽藍配置が独特なのは何故か。
 それが多くの百済系の伽藍配置でも唐のそれでもなく新羅系のものであるのは何故か。
 それは他の大寺の伽藍配置に比べ、落雷・火災対策としては古臭いものだが、それをあえて採用しているのは何故か。
 この新羅系の伽藍配置は、百済王家の後裔が枚方市に建てた百済寺(注)もそうであるのは何故か。(注:大阪府における二つの国の特別史跡のうちの一つ もう一つは大阪城) 
 
 ・・とすれば問題の所在は新羅にある。
 新羅では、文武王が倭兵の侵攻を鎮めるために、わざわざ海岸に倭を睨んで感恩寺を建てた。(三国遺事)(感恩寺は682年神文王が完成)
 そして、それは663年に白村江で唐・新羅連合軍に完敗していた倭にとっては緊張の糸の張りつめていた時代、・・各地に山城が築城されていた戦争前夜に似た微妙な冷戦の時代であった。
 故に、本薬師寺と移建された薬師寺は、天武天皇が680年に皇后の病気平癒のために発願したものではあったが、喫緊の軍事・外交課題である感恩寺の「暴力」に的確に対抗する意図が重層的に含まれたものであった。
 そのためには、感恩寺と瓜二つでなおかつそれよりも拡大した伽藍配置の御寺でなければならなかったのだ。
 つまり、新羅王の魂魄を込めたビーム光線が感恩寺から発射されているのを受けて、それを相似形で強化して光線返し・呪詛返しをしていたのが薬師寺だったのだ。
 このように考えると、百済王の後裔が万感の「恨」を込めて新羅形式(感恩寺と相似形)で百済寺を建立した謎も氷解する。

 以上は、独断で私がまとめた感想である。
 文献史学だけではここまで言い切れないが、考古学と二重写しにすると目から鱗の歴史が浮かんでくる。
 とすると、往々にして歴史家が馬鹿にしがちな、再建された薬師寺西塔、平城京朱雀門、大極殿等を見ながら彼の時代を振り返るのも悪くはない。
 現代人が、・・・少なくとも私が抱いていた「祈り」のイメージなどを遥かに超えた当時の暴力的な呪詛合戦を理解できないと、南都の御寺の正確な歴史は把握できそうもない。
 柿食えば~  もいいけれど、こんな論文を読んで南都の古代に想像を羽ばたかせる夜も楽しい。

2 件のコメント:

  1. 大変面白いブログでした。薬師寺についてはパンフレット的な知識と「西岡常一棟梁」が伽藍復興について書かれた本や話されたテープ位の知識ぐらいしかありません。その中で今回のブログに関係がないかもしれませんが印象的なのは①法隆寺が百済の工法を基礎として基礎寸法が「高麗尺(コマジャク)」であって剛健雄壮な建造物で半島から寺工や瓦工が渡来していた。②薬師寺は基礎寸法が「唐尺(カラジャク)で基礎寸法が細かくなり繊細華麗で優しい建造物である。半島を経ず直接唐からの工人か唐で学んだ大工の仕事ではないか。・・・この事から法隆寺から薬師寺までわずか約70年の間に建築技術の変化とその背景にに何か大きな出来事があったのではないか「長谷やん」のブログと重ね合わすと面白くなりました。

    返信削除
  2.  ブログに書きましたが、私は古代史について、全体としてロマンチックに捉えていたのですが、この論文で「頭を冷やせ」的なショックを受けました。
     ですから、このブログのテーマは「私は驚いた」です。
    スノウさんのコメントは勉強になります。これからもどしどし御教示ください。

    返信削除